続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(49)  PDF

続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(49)

終章

 何も知らない、何もわからない、ぼくの生前の空の世界。もちろん、何の記憶もない。父の精子と母の卵子が結合してぼくの生が始まった。その発生が何万分の一か、何千万分の一かわからない。ぼくの人間の世界が始まる。恐らく育つまいと思われた男の生涯が八十有余年続いた。あとは次の知らない世界が始まるのだろう。ぼくはキリストのことも、仏教哲学についても何の知識も持っていない。しかし死とは恐ろしいもので、毎日近づいてくる。もし来世の世界があるとして、そこで会える人がいるとしたら、ぼくは誰に会いたいだろう。昨日、何の原因とも思われず38度台の発熱に会い、がたがた震えた。遅ればせながら、死者に会えるとしたら、誰に会いたいか。やはり、父、母、姉、骨肉の人、それに他の人に会えるとしたら、ぼくは松江高校時代のクラスメートに会いたいと思う。青春という美しい言葉。ぼくのように閉塞性の強い孤独に暮らした者にも、青春なる語は、僅か2年半だったが、松江時代を青春の代名詞と考えてもいいと思っている。考えれば考えるほど、青春とは貴重なもので、特に戦争下であったせいもあろうか、敝衣破帽、もののなくなった時代だったから、この風習もいつとはなく消えてしまっているが、また勉強が嫌いで、文乙の1年生の3学期になっても、デル、デス、デム、デンを知らなかったと言うエピソードも近づく兵役に備え、夢のまた夢であった。だがあの松江時代、ぼくは少数の1人だったかもしれないが、全くガールフレンドもなく、完璧な童貞で過ごした時代、この象徴がやさしかった友人の姿に重なるのである。この青春への感情は、ぼくの片思いなのかもしれない。

 今更、特別に卑下することもないが、ぼくの生涯は全く田舎医者の一代だった。嬉しかったこと、苦しかったこと、悲しかったこと、これらのことは保険医新聞の連載「漂萍の記」「続漂萍の記」にさんざん書かせていただいた。今は医業を休み、過去の生を眺め入るばかりである。

 過ぎ去ったものは皆美しい。宮津中学時代、あの恐ろしかった配属将校田川中尉も決して悪い人ではなかった。不運な生涯だったが、あの肥った夫人、いつも抱いていた赤ん坊(男女の別も知らない)。あの戦乱の時代、どうすごされたであろうか。長崎医大に行った、原爆で死亡した4人の文乙の同期生、ぼくは京大が駄目だったら長崎に行くつもりだった。が、ぼくは僥倖にも京大にすべりこんだ。長崎に行っていたら完全な死である。人生なんて空の間の一瞬なのだから死亡すれば全てが終わる。これが正解なのかもしれない。ここまで書いてふとした機会で、精神科の女医で後半生をらい患者の心のケアに捧げた人、神谷美恵子氏の文章を読むことができたので写しておく。

 生が自然のものなら、死もまた自然のものである。死をいたずらに恐れるよりも現在の一日一日を大切に生きていこう。現在なお人生の美しいものにふれうることをよろこび、孤独の深まりゆくなかで、静かに人生の味をかみしめつつ、さいごの旅の道のりを歩んでいこう。その旅の行きつく先は宇宙を支配する法そのものとの合体にほかならない。この合体の中にこそもっと大きな安らぎのあることを、少なくとも高齢の人は直観しているようにみえることが多い。『生きがいについて』昭和41年刊(178頁)

 巻を閉じるにあたり、思いもよらず己の幸運を確かめている。保険医協会の方々、有難うございました。つまらぬ駄文で紙面を汚し心から恥ずかしく思っています。永らくご援助いただいた編集担当の方に深く御礼申し上げます。無位無冠のまま無名で過ぎ去ってぼくは幸福な生涯でした。有難うございました。

 ※連載「続々漂萍の記―老いて後」は、今回でいったん終了し、補遺を再開する予定です。

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