続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(47)  PDF

続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(47)

写真

 保険医新聞の編集の方から、古い写真の提出を依頼されていた。家のなかを大捜し、先ず幼少期、口大野小学校、宮津中学時代のアルバムを見つけてお送りした。だがぼくの青春期、もっとも書きたかった松江時代のものが見つからない。半月ばかり書棚その他、ひっくり返してやっと見つけた時、本当に嬉しかった。松江時代の松村博の写真、その他がアルバムとして残っていたのである。

 松村の写真はほとんど見目形もわからないほど小さくぼんやりしたのも含め5枚ばかりあり、ぼくは忘れてしまっていたのだが、彼は馬術部に入っていた。馬にまたがり、おそらく桜の樹だろう花の下で1人で写してある。乗馬姿の写真にペン書きの銘が入っている。

「地上極楽有馬背 松村博」

 ぼくは悪筆だが、松村も同様でぼくなみの筆致である。ぼくは古い同級生の写真も同時に眺めながら考えた。当時の松江高校の敷地内に、馬を飼っていた場所、つまり厩舎があっただろうか。いやそんなものは確かになかったし、馬の鳴声も聞いていない。これはもう60年以上も前のことだから、どこまでも想像だが松江市内に馬好きな人がいて、その人が己の馬を提供して馬術部を作ったのではなかろうか。その人が松高の先輩であれば話が面白くなる。馬術部は少なくとも部員が5、6人はいた筈である。松村の家は国鉄松江駅から比較的近く、寺町通りの向かって右側にあり、出雲紙の問屋で大きな店であった。そんな関係もあり、市の有力者から馬の話が出たのかもしれない。松村は馬の話になると、いつも興奮していた。だが乗馬にはそれなりの訓練が必要である。同じ理科生の1人が馬に腹部を蹴られて入院、開腹手術、ほとんど1学期休んでいたことがあったのを思い出す。松村から聞いたこれも馬の話、馬に乗ると高い位置になる。馬術部のリーダー(これが誰だかわからない、上級生か松江高校のやはり職員の1人だろうか)から聞いたとのこと、乗馬して市内を歩いていると、塀越しに民家の居間や座敷の内部がよく見えることがある。昼間でもよくやっとんなることで、云々。もちろんぼくは松村は童貞だと信じていた。だが松村からこんな猥談めいた話を聞くとは夢にも思っていなかった。松村はこの話をしてくすくす笑ったのを思い出す。松村とは写真の交換をしたことがあった。松村はそれをいかにも恥ずかしそうにしてぼくに手渡した。

「どうもこの写真は好きじゃぁないんだ。あまりにも子どもっぽく写っている。全く高校生には見えないな。まあ中学3年位かな」

 松村は小柄で初々しく可愛かった。蛮カラを誇る高校生に交じって恥ずかしかったんだろう。ぼくの写真もあって、三八式歩兵銃を持ち3人で兵器倉庫(正式の名前があったと思うが)の柱にもたれたり立ったりしている。1人は下村康夫、阪大医学部を出て開業をしていた。あと1人は畑治人、大柄な男だったがおとなしかった。阪大工学部に行ったが、昭和20年1月12日、死亡した。病名は腸チフスだったとのこと。母者と2人の生活だった由、ただ黙祷を捧げるだけ。

 ぼくは文弱の徒だったか、視力左右とも1・5、色盲もなく、それで射撃部に入っていたのだ。他に伏せの姿勢の写真が2枚あって、ぼくはずる賢かったんだろう、配属将校の受けをよくしようと計ったのかもしれない。

写真1
写真2
写真上は松村の乗馬姿、下は松校射撃部の3人(著者は右上)

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