続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(46)  PDF

続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(46)

袖ふれ合うも多少の縁

 丸尾勇さんのことを書こう。丸尾さんは昭和15年、宮津中学校卒業生で、ぼくが中学に入った時4年生、宮津町住の方だった。学校で衛生部というのが組織され、選挙だったか、担当教師の推薦だったか忘れたが、中学2年の時で丸尾さんは5年生、チームのリーダーだった。どうも記憶がはっきりしないが、宮津中に通っているとき、暁星女学校のあたりで向かって左方の小道からひょいと現れられたような記憶がある。ぼくはなぜ衛生部の一員になったか、父が開業医であり、ぼくも医者になるだろうとの予想めいたものがあったのかもしれない。丸尾さんは小柄でやさしい人だった。内気(うちき)な人との追憶の念が強い。衛生部は各クラスから1人ずつだったので、合計10人で形成され、朝礼中脳貧血の発生で倒れたり、外傷の治療などの時、先生に協力することが仕事だった。某日、朝、校長か教頭から訓示を受けているとき、1人おいて隣に立っていた生徒がふらふらっと倒れそうになりしゃがんでしまった。それ、衛生部の出番だ。ぼくは隣の男に背中をこずかれ、しゃがんでいた男を列から連れ出し、きめられた場所に連れて行った。また元の列に帰り話を聞いていたら、今度はぼくが同じような発作を起こし倒れそうになった。横にいたのは藤山英一といい、剣道ではクラスNo.1、たくましく大型な生徒だった。彼がぼくをさっきの生徒と同じ所に連れて行ってくれた。周囲からくすくす笑い声が聞こえた。当日は授業の始まった時から、ぼくはさんざん皆からからかわれた。衛生部が倒れたらどうするんだ、あかん衛生部やな。藤山は力の強いやさしい人だったから何も言わなかった。ただ笑っていたが。I町から通っていたYはさんざんぼくに悪態をつき、ぼくの片肩をつき、転がそうとさえした。ぼくは執念深いのだろうか、70年ばかり前のことだが、今でもありありと覚えている。Yは養子に行き、Tと姓を変えた。2005年版の名簿では彼は死亡者の中に入っていた。

 くり返すが丸尾さんはいい方で、ぼくは大切にして貰った。わざわざぼくのクラスの教室にまで顔を出して、その日の会合のことなど連絡して下さった。前に記したよう、3年生の2学期から宮津町本町に下宿することになり、丸尾さんは卒業され、横浜市の貿易商に勤められた。ほとんど毎週1回位の割合で封書の手紙を下さった。内容は日常茶飯事のことが多かったが、一度だけ東京開港の件が主題になっており、その時はひどく怒っていらっしゃるようだった。お恥ずかしいが当時のぼくには内容は判断できなかった。書体はいつも端正なものだった。ぼくは受験勉強で忙しかったが、必ず悪筆で返事を書いた。

 松江高校に入り自習寮に住むようになり、その頃から手紙が絶えた。何回書いても返事はなく、またぼくの手紙も住所不明で帰ってくることはなかった。前にも引用したが、昭和63(1988)年発行の同窓会名簿を繰っていて驚いた。住所は滋賀県G郡N町、職業は税理士とあった。ああ、丸尾さんは貿易商を止めて税務署に入られ、退職後税理士の仕事をしておられたんだな。いやいや会社勤めをしながら勉強をして資格を取られたのかもしれない。ぼくも永年税理士さんのお世話になったが、試験は難しいし、また仕事も激務だと聞いている。平成17(2005)年の名簿では死亡者の中に入っておられた。「袖ふれ合うも多少の縁」、長い人生のなか、ふとふれ合った友情の思い出、人生とはこんなことで成り立っているのだろうか。告、哀悼。

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