続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(42)
加悦谷
記憶の再燃ということがあるだろうか。前回、お茶の牧先生のことを書いて、お花の先生の方は忘れたと記した。その後眠られぬ夜、布団のなかで思い起こし、いろいろ考えていたら不意に記憶が蘇った。ただ牧先生の時と違うのは、近所の娘さんのことは覚えていない。母と2人の姉、先生の戸田さんとの関係であった。ぼくは長姉とは12年の年齢差、ぼくは小学校に入っていたが、その直前か、記憶の曖昧さは仕方があるまい。
戸田さんは加悦谷の人で、当時このあたりを運行していた○三(まるさん)バスを利用し、毎週か隔週か、はたまた月に2回かおいでになった。頭を角刈りにされ、きちんとした背広姿で見えられた。母が「戸田先生」とお呼びすると、戸田さんは、「奥さん、先生だけはお止めになって下さい。わたしは小さな縮緬屋のあるじです」とおっしゃった。当時は縮緬製造の盛期だったろうと思う。そこの主人がお花の先生の免許を取り、好きな道を教えに歩く、ということは現在でも当地にも数名あり、ずっと続けられた一種の商売だったろうと思う。牧先生の場合もそうだったが、戸田さんも何の流派だったか何も知らない。幼いぼくにそんな説明をする人もなかったし、父はあまり関心がなく、母が仕切っていただろうと思う。
加悦谷は裕福な土地柄だったと思う。平地峠を越えると現京丹後市大宮町に通ずるのだが、峠を越えるとぐっと鄙びたカラーが濃くなるように思われる。いや口大野にも工員が百人を越える縮緬屋があったし、さらに縮緬産業を統師する丹後織物工業組合は峰山町にあり、現在は大宮町河辺になっているが、とにかく加悦谷地方は祭その他、万事が派手である。
ぼくは丹後地方史に凝り、それから蕪村に入ってゆくのだが、蕪村伝説も数々残り、同時に当時の財産家、お金持ちも江戸時代から明治の始めにかけての作品を求めていらっしゃる。江山文庫でよく展示され見に行った。実は元加悦町役場でぼくも蕪村について話をした。蕪村はいっときぼくの夢だった。だがやがて、己の無能さに失望し離れていくのだが、加悦谷地方への親近感は離れられないものがある。
宮津中学の3年生の半ばまで汽車通学をしていたことは前にも何回か書いた。加悦谷の方は加悦鉄道で丹後山田迄行き、そこで乗り変えて宮津まで走る。一級上で土肥美夫(よしお)なる成績優秀な人がおいでだった。確か級長だったと思う。ぼくが1年生の時だった。宮津駅の向かって左に広場があり、材木や丸太棒(まるたんぼう)が転がっていて、その上に一級上の人達が群れていた。下級生は上級生に会った時、歩調を取り敬礼をしなければならない。土肥さんがいてすぐに立ち上がり、姿勢を正し返礼をしてくれた。こんなことは珍しいことだ。たいていの人が知らぬふりをしているが、座ったまま帽子の庇に手を持っていくくらいである。ぼくは子ども心に土肥美夫を偉い人だと思った。彼はおそらく旧与謝野郡石川村の縮緬屋の息子さんだったと思う。石川には土肥姓が多い。ぼくが京都在住時お世話になった安田千代子さんも石川出の人だったから、聞いていたら彼の周辺のことなどもわかったと思うが、残念ながら聞いていない。
土肥氏は五卒で四高へ、それから東大文学部卒のコースだったと思う。何かのきっかけでぼくは彼が同志社大学の教授になり、それから京都大学に転じられたとの話を聞いた。京大教授就任後間もなく、某大新聞の学芸欄に写真入りで論文が発表された。内容は全く忘れたが、偉い人になられたなあと思った。だが意外に早くまだ定年前だったと思うが急逝された。また奥さんも某大学文学部の教授だと人伝てに聞いた。