続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(36)
原子爆弾
何回か書いたが、大学に入ったのは昭和19年10月である。戦争対策で解剖の講義も未だ終わっていないのに、空爆被害の一般人の救命処置を特別に外科助教授から受けた覚えがある。助教授は、医学のイロハも知らぬ者に何を教えろと言うのか、激しい放言のあったことを思い出す。とにかく医師養成が危急の問題だった。で、早朝から夜近くまで猛烈な授業が行われた。昭和20年8月6日の原爆はどうだったか、知っている人もあったかもしれないが、誰もが無口でしゃべらなかった。翌8月7日、ぼくたちは基礎医学教室から病院の方に歩いて行った。授業は基礎も臨床もまじっていたのではなかろうか。途中看護婦(師)たちに会った。驚いた。白衣ではなくて緑色の看護婦(師)姿だった。一緒にいた同級生の1人が言ったことを覚えている。
新型爆弾には白衣では駄目なんだそうだ。
原爆の件は政府発表の新聞記事以外は何も知らなかった。当時ぼくは19歳だった。
平成21年3月25日、尾道市で発行された詩誌「蘭」67号を3月30日に拝受した。リーダーの高垣憲生氏はお年70代後半らしい。紙面は藤富保男氏の詩集のことなど、またシュールリアリズム詩人荘原照子の坂東里美氏が書いた詩論などがあり、どうやらこの系統に御興味が深いようだ。その高垣氏が巻末に、「SPOT『原爆だとすぐわかったか』」なるエッセイを書いていらっしゃる。これは中原澄子詩集「長崎を最後にせんば」の紹介。反論の文章である。それで問題の詩を写しておこう。
そいで煙草のバット10本入りの配給の煙草ば1本にぎって
階段ば1段上がったとこつで
エンジンのスイッチで こう煙草に火ばつけようてしよって
そん時 光ば2回見たっ
マッチのなかったし
あいや エンジンに火の走ったかて びっくりしたっ
原爆の光で すぐわかった
これは被爆者市山繁さんの語り口で、長崎原爆、昭和19年8月9日の日のことである。高垣氏は「原爆の光で すぐわかった」とはおかしいと反論しておられるのである。原子爆弾とはっきり書いたのは、8月16日の新聞である。一般市民が、原爆の光で、すぐわかったというのは間違いで、おそらく作者の想像に類するものにすぎない。これが高垣氏の反論である。氏は当時13歳であったといわれる。ぼくより6歳年少である。
戦争末期、ぼくたち学生のなか厭戦気分はあったかもしれない。原爆直前、町で宮津中学時代、同級生だった佐久間に会った。彼は確か京都府立医大に通っていたと思う。彼は話のついでに、ぼくの下宿までついて来た。暗い幕の下、2人で話し合った。
「この戦争、どうなるんだろう」
佐久間はすぐ返答した。
「しようがない。行く所まで行くんだろう」
「神風が吹かないかな」
ぼくの問に佐久間は答えなかった。壁に耳あり、ひそひそ話も危険だった。誰もが黙っているより仕方がなかったのだ。特攻隊の少年が次々に死んでいく。これも無茶苦茶なことだった。ぼくらの授業も平行して無茶苦茶だった。前にも書いたかもしれぬ。草刈という三高出の同級生と2人で病理学教室の2階に、当直という名目で一泊した。草刈は大阪空襲の経験者だった。彼は言った。
「何のためにこんなことをするのかな。空襲警報のサイレンが鳴ったら俺は逃げるぜ」