続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(35)  PDF

続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(35)

出 石

 平成21年3月18日。丹後中央病院より、速達来る。3枚合計360円の切手が貼ってある。3月22日、芝蘭会近畿北支部(仮称)年1回の会合を、プラザホテルKにて開催するとの通知。芝蘭会とは読者はほとんどご存知かと思うが、京都大学医学部の同窓会である。今まではたいてい舞鶴であったようだが、ぼくは一度も参加したことがなかった。小心翼翼といおうか、出不精からなのか。ただ何となく行きたくないのである。大学は出たけれど、どこの教室にも入らず、こんなひがみもあったかもしれない。ただ今度は隣町だし。宮津の古い友人吉岡均医師、警察医では先輩の岩根医師、更には松江高校25期理乙の後輩にあたる藤田医師等の顔が見たかったのである。それから、もうぼくが最年長だから、いつ動けなくなるかわからない。いや死んでしまって今生の別れになるかも。3人とも今は開業はしておいででない。だが今回は、3人とも欠席だった。ぼくは会合後の食事の席で乾杯の音頭を取らされた。慣れないので口ごもったりしたが、とにかく無事に終り、一同は拍手をして下さった。

 45年卒の西村一郎氏が支部長、豊岡病院院長の方が副理事長に決まったようだった。大学の同級生で姫路高校出身の高山がいた。おだやかで気のよさそうな人柄だったが、大学時代、特別に親しかったわけではない。いつだったか、どうしても思い出せないのだが、ぼくは高山から直接に内科教授の内野医師から豊岡病院長になってほしいと頼まれ赴任したとの話を聞かされていたのだった。このことを現豊岡病院長はよく知っておられ、高山元院長は一昨年亡くなられたとのことだった。医師会が別なのでぼくは知らなかった。

 実はぼくは一度だけ出石に行ったことがある。某氏の小説で出石小学校の校庭が舞台になっていたので、1回見たくなったのである。小学校の校庭はなるほど小さかったが、子どもが大勢集まって遊んでいた。ぼくは出石そばを食べ、あちこち歩き廻った。古い城下町といおうか奥ゆかしい町並であった。そのなか目抜き道路だったが、数段の石段の上、堂々とした門構えの大邸宅の表札が高山の名前だった。あっと思ったが、ぼくはびびってしまい、道を通り抜けた。訪問はしなかった。

 出石は阪神タイガースの投手、能見の故郷で、彼の父はポリさんだと聞いた。ぼくが訪れたときには、彼はまだ生まれていなかっただろう。

 数日後、吉岡医師に電話をしてみた。かかってくれるかなと思ったが、しばらくして受話器を取ってくれた。3月22日、孫の結婚式で欠席したとのことだった。

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