続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(34)
水木教授あれこれ
松江時代、水木真弓教授から週1回だと思うが国語を教わった。小柄な好々爺といった感じで、講義の内容は何も覚えていない。ただ、ぼくたち22期生の文甲で1年生の時、総代の1人だった水木筈夫という奈良県出身の人がいた。この人が水木教授の親戚の方と聞いていたが、彼は教授の息子さんではなかったろうかと今は思っている。おだやかな人柄で酸いも甘いも噛み分けたような方だと思われた。ただ理甲生のぼくは深く話し合った経験は全くない。教授は同窓会員名簿を見ると昭和11年3月から25年3月までお勤めになり、26年4月21日に死亡されている。そして遺族の方(夫人)の現住所に奈良県大和郡山市○○となっている。恐らく定年でお辞めになっただろうと想像するから、ぼくたちの習ったのは50代の始め頃だった計算になる。それにしてもぼくたちには老爺といった感じが強い。ところで同期生の水木筈夫の住所が、水木教授と全く同じなので驚いた。前にもふれたが、恐らく筈夫は教授の御子息だったのに相違ない。そして彼は京大法学部を卒業し、勤め先は奈良高校となっている。
「淞友」No.11に、13期文甲出の井口寿氏が
なつかしい好々爺
―水木先生の思い出―
と題して教授のことを詳しく書いていらっしゃる。教授は東大文学部国文科卒で古川柳が専門だが、なかなか多趣味でいろいろなことに手を出しておられたよう。東京6大学リーグ戦のファンで当時としては高性能な受信機を購入され、できればJOAKの電波をキャッチしたいとされ、必ずスコアブックをつけ、それをまた沢山保存されていた由。これも蒐集癖の一つであろうが、その他、浄瑠璃、歌舞伎、新劇、落語等々の名人上手のことの知識、更にマッチのラベル、各都市の市電回数券の表紙、市電の乗換券、内外の郵便切手、その他いろいろ。それは東大学生時代から始められた由。実は口幅ったいが、ぼくも子ども時代から日本の切手、更に新中国になってからの中国の切手を相当熱心に集めていた。数年前から億劫になり、自然中止の形になったが未だ手許に残している。教授の蒐集品のなかに○○であると、当時文科の生徒から聞いたことはあるが、もちろん先輩は何も書いておられぬ。高校生でも2年上の方で理乙だったと思うが、結婚している方があった。帰省時に父に話したら、「高校生で妻帯したら勉強は無理だろうなあ」と言った。
22期の水木は蔵書家だった。が、教授の所から持ち出して寮の部屋に並べていたのかもしれない。
井口氏は「淞友」の末尾に、京都府立嵯峨野高校校長と記してあった。55年度の会員名簿がまた出て来たので、京都支部の所のページをめくったら、大谷大学講師とあった。
ぼくは引っ込み思案で、教授の私宅を訪れたのは前に書いた池永教授の所へ1回行っただけだった。戦時下で誰もが食料集めに必死だったから、教授サイドもお茶を出すのが精一杯だったのではなかろうか。