続々漂萍の記 老いて後(27)/谷口 謙(北丹)

続々漂萍の記 老いて後(27)/谷口 謙(北丹)

温泉行

 松高自習寮に入って昔風の大便所を使い、しゃがみこんで驚いた。正面の板に、大阪人排斥と、墨字で書いてあるのを見たのである。クラスには大阪出身者が結構多くて、7、8人位いたと思う。京都出身者も数人いたが、京都人云々とはなかった。

 藤井雅一も大阪の中学出身で五卒だった。おとなしい人柄で、一向にバンカラ風でなかった。似た者同士と言おうか、次第に親しくなった。ぼくは気になっていた大便所の落書きのことを話題にしたら、藤井はがっくりした表情で、

 「何もそんなに嫌がられることはないんだがな、ぼくも見たよ」

 「うん、そうだ。みんないい人だよ」

 ぼくは慰める形になった。

 何度かくり返したが、第二外国語岡村教授の授業は峻烈を極め、ぼくも何回かおどおどさせられたが、藤井も同様だった。指名され起立したとき、ぼくの席の近くだったのだが、彼は両脚をがたがたふるわせていた。決して悪党、排斥されるような人柄ではなかった。

 ずっと時代が流れて、ぼくが厄年42歳の時である。家を新築して間なしの頃だった。日曜か祭日で、ぼくは1人で本を読んでいた。ブザーが鳴ったので外に出たら、車が横付けに置いてあり、何と藤井が独り立っていた。

 「おお、久しぶりやなあ」

 ぼくたちは手を握り合った。

 「家内と2人で温泉に行こうと思ってな」

 「まあ、内に入れよ」

 「いやいや、家内が初めて会う人に対する人なみの服装をしていないと言って車から降りないんだ」

 ぼくは車に近付こうと思ったが、夫人の気持ちをおしはかり、声をかけるのを止めた。

 当時近くの温泉と言えば木津温泉か、城崎のそれだろう。城崎温泉は志賀直哉の小説にもあり有名だが、木津は全くひなびた田舎温泉だ。彼はどちらに行ったか知らない。

 その翌年か翌々年だったかはっきり覚えていないが、再度、藤井が立ち寄ってくれた。同じように夫人と2人で、温泉に行くと言って。夫人は前回と同じことを言ったようだ。ぼくも遠慮をして窓越しに車内を覗かなかった。

 阪大工学部を卒業して、彼は日本板硝子に就職をしていた。東舞鶴に大きな工場ができ、藤井はおそらくそこで仕事をしていたのだろう。当時、板硝子は繁栄を極め、その舞鶴工場長は地区税務署発表の所得ナンバー1だった。藤井とはずっと賀状を交換していたが、10年位前から絶えた。2回訪ねてくれたが、夫妻は子どもさんを連れていなかった。藤井は子なしだっただろうか。

 

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