続々漂萍の記 老いて後(25)/谷口 謙(北丹)

続々漂萍の記 老いて後(25)/谷口 謙(北丹)

主事2人

 宮津中学時代は2人の校長、森田、山上氏があり、この方達から修身の授業を受けた。松江では野田じょうよう(名前の漢字は忘れた。浄遥? 浄曜?)、太田某(名を忘れた)の、お2人が主事という名前でそれぞれ週1回の講義があった。

 野田主事は颯爽とした身のこなしで、校内の地位は副校長的なものではなかったかと思う。校内の問題点をきびきび仕切っておられたのだと追憶する。太田主事の方は松高の古い先輩で、やや泥くさく我々生徒にも親しい思いで接しておられたようだ。2人とも道義の講義については何も覚えていない。やはり中学の修身の延長のようなものだったろうか。戦争下だったから、自由とか自治とかの問題は避けられていたのではなかろうか。前にもちょっと触れた天皇制、右翼、左翼等々は全く論外だったと想像する。

 昭和19年4月、3年生になって暫時、長期の勤労奉仕は、通年動員の発令を今か今かと待ち受けていた。いや思いわずらっていたと言った方がいいかも知れない。某月某日、道義の時間、太田主事が教室に入って開口一番、「皆さん、通年動員の指令が来ましたよ」と赤い顔をして発言した。教室はどよめいた。何処へ行くのか、正式には何日からか。太田主事は赤い顔をますます赤くして、その他は口をつぐみ、一切発言はしなかった。

 その直後の話。教員室はもめたらしい。まだ生徒には秘密の段階だったのか、文部省から通達直後だったから、どこから漏れたのか、もう1人の主事・野田氏の驚きは最高だったらしい。この時、ただちに太田氏が、「実は私が一言漏らしました」と言っておれば、野田氏の驚きもおさまり、その後のさわぎはなかっただろうに。この事件の後始末はどうなったか、ぼくたちは知らない。野田氏より太田氏は年長だったと思う。

 これからは戦後のことで、ぼくの聞いた話である。当時、京都市電はいつもいっぱいだった。松江時代のクラスメートから聞き知ったこと。彼が満員電車に乗ろうとしたとき、たまたま野田氏と一緒で、氏は「なかはあいているじゃないか、つめなさい。つめなさい」と大声で叫んだとのことだった。野田氏は京都市内の寺の住職だったと後で聞いた。名前の浄からすると浄土宗の寺かもしれない。ただ、これは他愛もないぼくの想像である。

 太田氏のことは松江市在住の人から聞いた。松江市内で寒空の下、募金運動をしておられたそうで、松高生がいくばくかのお金を渡すと、

「有難うございました」

と、深々と頭を下げられたとのこと。

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