続々漂萍の記 老いて後(23)/谷口 謙(北丹)
哲学青年
同じ松高出身で理乙出、小柄でおとなしい感じ。いやそれでも松高柔道部に属していたから、おとなしいではない無口だったのかもしれない。杉山(名前は忘れた)という人がいた。前に書いた赤井との関係で、ぼくは次第に杉山とも話をするようになった。彼は文学好きで康成の小説なんかも読んでいた。ただ驚いたことがあった。何も知らないぼくが右翼、左翼、天皇制のことなど口にしたら、真っ赤になって目を据え、とうとうと反論をした。当時、京都学派と称する京都大学哲学科出身の方々が台頭し、ジャーナリズムを賑わしていた。おそらくその所説だったと思うが、彼等の学説を展開したのだった。彼等の中で高坂(こうさか)が一番手だろうなぁと言ったと思う。当時、彼は哲学青年だったのだろう。ぼくには哲学がなかった。はんなりした気の弱い文学青年だったろうと思う。ただ彼の哲学の話題は一度だけだったと思う。
昭和19年末か20年初頭、やはり冬のことである。彼に小説本を借りていて、それを返しに彼の下宿を訪れたことがあった。下宿の場所は覚えていないが、それは寺院だった。戸口を開いて挨拶をする。恐らく住職だろう僧が現れ、「杉山さん、おいでですか」と尋ねると、男はくるりと後方を向き、
「うちの学生はいるか」
と、大声で叫んだ。ぼくはいささか驚いたが、それでも許されて杉山の居間に入った。びっくりした。机の一隅が仏壇のような形にしてあり、亡き人の写真があり線香がたかれていた。
あっと気付いた。彼は浜松の出身で、家族はそこに住んでいたのだ。家族は何人だったかわからないが、空襲が激化して、不思議に京都はまだだったが、米軍の空爆は地方都市にまで及んでいた。彼の家族は被爆して何人かが死亡したのだ。彼は1人で家族を弔(とむら)っていた。
やがて敗戦。その後、杉山はどうしていたか。とにかく彼は人を離れ、声をかけようと思っても、視線を避け発言はしなかった。学校を卒業してインターン生活。人伝に聞いた話では彼は国立浜松病院に行った由。残された学生時代、彼は無言であった。話そうとしても返事がなかった。
それからずっと後のこと。昭和だったと思う。平成ではなかった。何かの記事、製薬会社から貰ったペーパーの記載だったか、それとも公的な文書だったか。浜松国立病院、小児科、杉山との記事を一度だけ見たことがある。