特別寄稿/福島・大野病院事件の無罪判決の意味するもの
一部の医学文献を根拠に、臨床現場の標準的医療を非難できない
弁護士 莇 立明
紹介と解説
2008年8月20日、福島地裁は、妊婦の癒着胎盤を剥離して大量出血死させたとして医師が刑事起訴されたいわゆる大野病院事件について、過失はないとして無罪判決を言い渡した。この判決は、当時マスコミが大きく報道し、各紙は社説などでも論評するなど多くの紙面を割いた。
医療界はもとより、各界の識者や市民などが判決結果を聞いた意見、感想を述べた。それらは、無罪の結論に対して賛成、反対に分かれたと言えるが、医療への刑事介入には慎重であるべきとする判決の姿勢に概ね賛成の上で、事故の真相の解明、今後の事故処理、事故防止対策に及ぶものがほとんどであった。検討中の政府の事故調査第三者機関の設置を急げとする意見も多く見られた。
このような世論の動向を反映してか、早々に警察庁長官は医療行為への捜査は判決を踏まえて今後慎重適切であるべきとの談話を発表し、検察側はこの事件の控訴を断念し、判決は確定した。この結果、このような医学専門的な高度の知的判断によるべき医療行為に対して、いきなり警察が捜査介入し刑事事件として立件することには、今後は抑制の傾向となるであろうといわれている。
また、医師法21条の「異状死」についても、届出義務のある範囲は「法医学的にみて通常と異なる状態で死亡している場合」に限定されるべきであることが明確となり、「診療中の患者が診療を受けている疾病によって死亡した場合」は異状の条件を欠く場合であるとして同条の「異状死」としないことが確認された。患者側が医師の医療過誤による死亡だと主張するだけでは、単純に異状死扱いとはならないことがはっきりしたと言える。
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言うまでもなく、不法行為に関する違法性の評価基準は、民事の場合も刑事の場合も共通するものであり、違法性の程度が高く重いものが可罰的違法との評価を受け刑罰の対象となるが、その違法性評価の基本は刑事と民事に差異はない。
この判決は、刑事判例ではあるが、医療過誤民事事件における医師の医療行為の違法性(注意義務違反)の評価基準としても適用され得ることは当然である。
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この判決のポイントは、
(1)医師の医療行為における過失(注意義務違反)の評価基準は、「臨床現場で実施されている行為(医療慣行)が医学的準則になり得る」とし、「大学病院や地方病院などの臨床現場の医療措置として、産科においては胎盤剥離を開始したら中止せず剥離を最後まで完遂させることが、臨床現場の標準的な医療措置であるとくみ取ることが出来る」と判断して医師の過失を否定したことである。
(2)検察官は、用手による胎盤剥離開始後、癒着胎盤を認識した時点で直ちに剥離を中止して子宮摘出術に移行すべきが医学準則であり、それをしなかったことに医師の過失があると主張した。しかし、判決は、検察官の主張に沿った「具体的な臨床症例」の立証がないし、また、検察官が準則であると主張することを記載した「医学文献は一部のもの」に過ぎないとして、結局、検察官の主張する過失の証明がないと判断したのである。
医師の特定の医療行為の違法とその選択の誤りを過失として主張するには、その主張に沿った「具体的な臨床症例」を提示して立証すること及びその主張に沿った「医学文献」は一部のものでは足りず、その選択が具体的に誤りであったことを証明する全面的・具体的な文献の提出を必要とすると判示したものである。それができなければ、医師の過失は認められないと結論したのである。
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この判決は、民事医療過誤訴訟においても、極めて参考となる重要判例と考える。
通常は、原告側より、医師の過失(準拠すべき医療水準)を立証するものとして、順守すべきあるいは選択すべき医療行為を記載した一般的な医学文献が提出されることが多いのであるが、この判決によって、それには「具体的な臨床症例」を提示することが必要であり、かつ、文献については、一部のものではなく、その主張に沿う具体的、全面的なものを併せ提出する必要があることが示された。原告主張の水準的医療が「臨床現場で広く実施されている具体性のある医療行為であること」の立証が必要要件であることが明らかにされた。
判決要旨
福島地裁・平成20年8月20日宣告(確定)(公刊物未登載)
事件番号 平成18年(わ)第41号
(1)全前置胎盤患者(妊娠36週6日・第二子目)に対する帝王切開術を施行したY病院産婦人科医師が、胎盤の用子剥離開始後に、癒着胎盤であることが判明、用手が困難となるが、クーパーを用いてそのまま剥離継続したため、患者が大量出血による出血性ショックで失血死したため、執刀医が、業務上過失致死及び医師法違反の罪で逮捕・起訴された事案につき、医師が胎盤剥離を継続したために大量出血が生じたことから、医師の剥離行為と患者死亡との間の因果関係は認められるとした。
(2)しかし、検察側が主張する、医師が用手剥離開始後に癒着胎盤を認識した時点で、直ちに剥離を中止して子宮摘出術に移行したとする具体的な臨床症例、および提出された医学文献中にも、用手剥離開始後に癒着胎盤が判明した場合、剥離を中止して子宮摘出を行うと記載された文献は証拠として提出されておらず、医学的準則であるとの証明がなされたとは認められないとして、執刀医による胎盤剥離の継続が注意義務に反することにはならないとした。
(3)臨床に携わる医師に医療措置上の行為義務を負わせ、その義務に反したものに刑罰を科す基準となり得る医学的準則は、当該科目の臨床に携わる医師が、当該場面に直面した場合に、ほとんどのものが、その基準に従った医療措置を講じていると言える程度に、一般性あるいは通有性を具備したものでなければならない。なぜなら、そのように解さなければ、臨床現場で行われている医療措置と一部の医学文献に記載されている内容に齟齬があるような場合に、臨床に携わる医師において、容易かつ迅速に治療法の選択ができなくなり、医療現場に混乱をもたらすことになるし、刑罰が科せられる基準が不明瞭となって、明確性の原則が損なわれることになるからである。この点につき、検察官は、一部の医学文献やF鑑定に依拠した医学的準則を主張しているのであるが、これが、医師らに広く認識され、その医学的準則に即した臨床例が多く存在するといった点に関する立証はされていないのであって、その医学的準則が、上記の極度に一般性あるいは通有性を具備したものであることの証明はされていない。
(4)医療行為が身体に対する侵襲を伴うものである以上、患者の生命や身体に対する危険性があることは自明であるし、そもそも医療行為の結果を正確に予測することは困難である。
したがって、医療行為を中止する義務があるとするためには、検察官において、当該医療行為に危険があるというだけでなく、当該医療行為を中止しない場合の危険性を具体的に明らかにした上で、より適切な方法が他にあることを立証しなければならない。そのような立証を具体的に行うには、少なくとも、相当数の根拠となる臨床症例、あるいは対比すべき類似性のある臨床症例の提示が必要不可欠であると言える。
本件では、用手剥離を開始した後は出血していても中止せず、剥離を完遂させることが、「臨床上の標準的な医療措置である」として、その方法によった執刀医の過失を否定し、無罪を言い渡した。
(5)医師法21条にいう異状とは、警察官が犯罪捜査の端緒を得ることを容易にするほか、警察官が緊急に被害の拡大防止措置を行うなどから、法医学的に見て、「普通と異なる状態で死亡した状態である」ことを意味すると解されるから、診療中の患者が、診療を受けている当該疾病により死亡したような場合は、医師法21条にいう異状の要件を欠くというべきであるとして、本件では、医師法21条にいう「異状死」に該当するとはいえないとした。