保健所と京都市の公衆衛生行政テーマに勉強会
歴史に学び 未来に向け何をなすべきか 野村拓氏が講演
協会は2月11日、京都市の保健所職員等と合同で企画した「保健所と京都市の公衆衛生行政を考える勉強会」を開催。当日は、理事者をはじめとした医師、歯科医師、保健師等31人が出席した。「医療・公衆衛生・社会保障を一体的にとらえよう」との主題で野村拓氏(国民医療研究所顧問)が講演した。
医療・公衆衛生・社会保障を一体的に
講演する野村拓氏
野村氏は、社会福祉・社会保障・公衆衛生のいずれも危機にある今、憲法25条を再確認する時代だと述べ、「公衆衛生」を歴史的に俯瞰した。
戦前、関東大震災の救援活動・セツルメント活動、訪問看護活動など、ボトムアップ型の地域保健活動が、1935(昭和10)年に都市型保健館(京橋)、農村型保健館(所沢)等を生んだ。だが、それが1937年春、陸軍主導の保健国策にとりこまれる形で保健所ができた。これは戦争目的であったが、当時の「保健施設ノ拡充に関スル件」には、7カ年で700カ所の保健所創設が謳われ、以降10年間に全国で本所550カ所、支所1千100カ所を設置する計画となった。当時の活動はアクティビティーが高く、各地で多数の講習会・講演会・座談会・展覧会の開催記録が残っている。また、当時、保健所にレントゲンが設置され、地域の開業医に活用を呼び掛ける等、活発で密度の濃い取り組みが進められていた。
戦中、全てが戦時体制に巻き込まれ、1941年の「保健所ニオイテ調査スベキ事項」の冒頭には、「地域内町村別壮丁検査成績(既往10ケ年)(徴兵検査の成績)」とあり、保健所が徴兵検査成績を地域別に把握する仕組みができた。医療分野は「官製日本医師会」に象徴されるように、戦争一色。青少年に体力手帳を交付し、管理する「国民体力管理医」制度もあった。ただ、この仕組みは「体力」を「健康」に置き換えると、現在に通ずる政策の原型と見ることもできる。「母子手帳」に影響を残す「妊産婦手帳」も発行された。当時の医師総数は4万人。うち2万5000人は軍に従事。戦力培養のための「国民皆保険」の声があがったのも当時である。
戦後、「新生保健所」時代は、使命感を持ち、保健所へ従事する人たちが増え、活気があった。一方、絶対的な占領軍の権限がある下で公衆衛生は展開された。1950年、結核が死因順位のトップの座から退く。この経過について、厚生省が歴史を書く際には、アメリカから「結核新薬」が届いたため死亡率が低下、となる。しかし、新薬が届いたことと、誰もがそれを入手できるかは別。新薬は「高貴薬」といわれ、保険が使えなかった。これを患者同盟や保険医などの運動が打開し、薬が国民に行き渡り、その結果死亡率を下げることができたのが歴史の事実である。その後、結核死亡率がさらに下がり始めた1952年頃になると「公衆衛生の黄昏」が言われるようになった。やがて、結核から「成人病」へシフトしていく。
80年代から逆風の時代が始まる。この頃から、医療費に対し、生産的評価をせず、『失費』と見る雰囲気が掻き立てられた。85年の医療法改正は都道府県に「二次医療圏」の概念を持ち込んだ。これが地域保健法にもつながり、「保健所は二次医療圏に1カ所でも良いのではないか」となってきた。また、「二次医療圏」という「広域行政」は、住民に不満があっても、どこにそれを伝えて良いかわからない。下からの住民要求を遮断するのが、広域化の特徴である。
最後に、野村氏は今回の問題を考える時、歴史的な力関係の蓄積を踏まえることが大切であり、医療や保健の今後を決するものは、国民のかしこさ。今回は間に合わなくても、次には間に合うくらいの長い目で取り組むことが大切だと強調した。
皆で地域の健康を守ろう これこそが公衆衛生の基本
保健師も参加した学習会
続いて勉強会では、京都市で活躍する保健師から、住民の健康を守るために奮闘しながらも、政府の政策に翻弄され続けてきた歴史を現場の視点から語られた。
意見交換では、機構改革反対だけではなく、市民に情報提供し、議論する土壌作りが必要ではないか。保健所の役割として、地区の医師との連携があり、ワクチン行政、僻地対策、マタニティ、母子保健の強化の必要性が高まっている。高齢化で困っている人が増えている。それを一つひとつ、見ていけば、保健所の仕事は増えているはずだ。「みんなで地域の健康を守ろう」とするのが公衆衛生の基本だ等、活発な意見交換が行われた。
勉強会を通じ、地域の医療者・保健師をはじめとした行政に従事する職員が、住民の生命や健康を守るために連携を強める必要性が高まっていること、その実現には、公衆衛生行政が成立していく歴史を踏まえ、よりよい未来に向け、現在地域で起こっていることを直視し、具体的な対応を行うことが重要であると、強く認識しあうことができた。