続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(18)

続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(18)

青 春

 青春という美しい言葉がある。老残なる悲しい言も。今仕事を止めた老残の身で青春を思い起こす。ぼくの青春時代は、宮津中学3年生後半の宮津町本町の薬局さん2階に下宿した頃から、松江高校より京大医学部にすべり込み、21年9月に父を失うまでを己れの青春と呼び追憶の対象としたい。

 今は大学に入った頃のあたりをうろうろしている。大崎の死のことは前に触れた。昭和19年10月1日、大学の入学式というものがあったかどうか。あったとしてもぼくは出席していなかったと思う。大学の校歌もあったかもしれないが、ぼくは知らない。後日帰省して医院を開いて間なく、宮津高校50周年を記念して校歌を依頼され発表した。この校歌は自分でも気に入っており、ぼくの生涯に残すただ1つのものと現在は思っている。だが今は校歌離れの時代であって、先生も生徒もあまり口ずさまない時代と聞いた。だが警察医になって、まだ峰山署の時代だったと思うが、宮津高校出身の警官から、京都府警の中で宮津高校出身者が集まり「さみどり会」なる会合を持つと聞いたことがある。ぼくの作ったのは「さみどりの山群(む)れ満(み)ちて」で始まるからである。これは余談だ。

 京都でぼくの住んだ最初は、ぼくの幼児の頃、家にいたお手伝いさん、子守りだった女性の婚家先だった。食べ盛りの子どもが3人あり、ご主人はどこかに勤めておられ、想像はしていたように食糧事情が厳しかった。父が心配して米や野菜をまとめて送ってくれたが、なんと半分以上が抜き取られて到着した。昭和19年年末から20年の初頭にかけ、冬の季節、京の底冷えというが、火の気のない2階の佇まいは全く身に痛かった。

 東京からやって来た現在93歳の次姉が、いろいろ考えて算段してくれた。次姉はぼくより10歳年長だが、不思議な世渡り術を持っていて、ぼくの下宿を探してくれた。死んだ長姉は谷口千代子と言い、宮津高女に通学していたが、同級に旧与謝郡石川村の生糸縮緬商中西広助さん長女千代子がいらした。2人の千代子がいてややこしいので、同級生たちが谷口千代子を千代さん、中西千代子さんをチイさんと呼ぶようになった。そのチイさん、またはちいちゃんが宮津町の安田さんと結婚して京都に住んでおられた。次姉はその人に頼みこみ、その家の2階に下宿させていただいた。

 ぼくが子どもの頃、ちいちゃんはよく遊びに来られた。もちろん千代子の所へである。ぼくは座り直し両手をついて丁寧に「今日は」と言って挨拶をした。ちいちゃんは立っていたが、驚いて座り礼を返して下さった。そのぼくが大学生になって、婚家先の2階でお世話になったのである。

 子どもは男の子が2人あって、どちらも小学生だった。そこでやっとぼくは小さな火鉢とそれなりの食事を得たのである。食糧品は父母が送ってくれたが、恐らくより多く石川村の中西さんのお世話になったろうと思う。孫たちに食べさせてやろうと思われたものがぼくの方に廻ってきたのである。近くに同級生の高木秀夫がいた。三高出の秀才として聞いていた。京都銀行創始者の一族だったとも知った。頭はとび離れていたが、次第に話すようになった。

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