特集2/待つことの意味 鷲田清一氏が記念講演
2009年8月9日に開催した定期総会及び60周年記念祝賀会において、大阪大学総長の鷲田清一氏に「待つことの意味」という演題で記念講演会をしていただき、大変好評を得ました。ここにその概要を紹介します。(文責・編集部)
哲学者 大阪大学総長 鷲田清一氏
1949年9月2日生、本籍地 京都府。1977年3月京都大学大学院文学研究科哲学専攻博士課程単位取得退学、1988年4月関西大学文学部教授、1996年4月大阪大学文学部教授、2003年8月大阪大学大学院文学研究科長・文学部長(2004年3月まで)、2004年4月大阪大学理事・副学長(2007年8月まで)、2007年8月大阪大学総長。
<専門>臨床哲学、倫理学
<主書>『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)、『「聴く」ことの力―臨床哲学試論―』(TBSブリタニカ)、『「待つ」ということ』(角川書店)、『京都の平熱―哲学者の都市案内―』(講談社)、『思考のエシックス−反・方法主義論』(ナカニシヤ出版)
<受賞>1989年サントリー学芸賞『分散する理性』『モードの迷宮』、2000年第3回桑原武夫学芸賞『「聴く」ことの力』、2004年紫綬褒章
待てない日本人
日本人は「待つ」ということが得意だったはずなのですが、特に80年代以降、「待つ」ことがものすごく不得意な民族に変わってきたのではないかと思います。典型的な例として、コマーシャルの時間が待てなくて、チャンネルをパッパパッパと変えて、プロ野球の結果を見たり、他のドラマをちょっとのぞいてみたりします。
最近は、そもそも「待つ」ということが必要でなくなってきました。待ち合わせというものは、1分遅れただけで相当イライラしたり、心配になったりしますが、今では携帯やメールでやりとりして簡単に待ち合わせ場所や時間を変えることができるので、待ってイライラすることはなくなってきました。
もう少し深刻な「待てない病」が教育、子育てです。子どもが少なくなったこともあり、こんなふうに育ってほしいというイメージがものすごく強くなってきています。子どもがイメージから離れていき、痛い思いをするかもしれないけれども、それも勉強というものだから、やがていろんなことを悟って戻ってくるだろうというような余裕を持った親が、本当に少なくなってきました。
もっと難儀なのは、いろんな組織が最近やらざるを得なくなってきた中期計画・年度計画、自己評価・第三者評価というものです。これはまさに「待つことができない」の典型のようなもので、大学の場合なら6年間の中期計画・中期目標、その目標に達するまで1年ごとに年度計画を立て、全部文科省に届けて、年度の終わりには自己採点し、第三者評価も受けなければなりません。これは、研究機関・教育機関の本質とかみ合わない制度です。本当の教育の成果はもちろん1年や2年で出るものではなく、30年40年かかって出る場合もあります。ちょっとやれば成果が出るような研究や教育をやっていくようなことがこのまま続けば、大学は本当に由々しい事態にたどりつくだろうと思っています。
「期待して待つ」ことで視野狭窄に
私が申し上げたいのは、「期待しないで待つ」「待たないで待つ」のが本当の「待つ」だということなんです。
本当の「待つ」ではないことの一番の例は、「期待して待つ」ということ、これは、じつは「待てない」ことなんですね。言い換えると、「期待して待てば、人の視野はどんどん狭くなっていく」ということなんです。
いちばんわかりやすい例は、巌流島の闘いです。武蔵は果たし合いの時刻がきたときに、対岸の漁師の家で、船の櫂を木刀の形に削って仕上げ、それから一寝入りしました。早くに着いていた小次郎は、立会人を横に置いて、瞑想するように待っていましたが、果たし合いの時刻になっても気配一つしない。立会人に、ときどき「武蔵はまだか」と聞くようになる。そのうち沖のほうで白い波が立ったり、カモメが鳴いたりすると、「武蔵の気配か」というふうに、世界のちょっとした変化のすべてが武蔵が来た徴候かと思われてくる。つまり、「武蔵が来る」ということでしか世界をみることができない、そんな視野狭窄に陥る。そして、気持ちのほうは「来たか」と思うと「ああ、違った」と激しく抑揚を繰り返すので、本当に武蔵が来たときには、気持ちがへとへとになっているんですね。
いよいよ武蔵が来て船を降りようとすると、小次郎は待てなくて、走っていって刀を抜いて鞘を捨て、構えた。そこで武蔵は、「おぬしの負けじゃ」と言う。剣豪である佐々木小次郎は、その一言でわかったんです。鞘を捨てるということは、抜いた刀をもう鞘に戻せない、負けるということを認めていることになる。そこでよけいに焦って斬りかかっていき、全然余裕がなくなって、武蔵にやられてしまうわけです。
つまり、「期待して待つ」とそれで意識が覆われてしまって、空回りし出す、余裕が全くなくなる。これが、何かを「期待して待つ」人が、視野狭窄になっていくということなんです。
幸福を小刻みに
もちろん、この視野狭窄を上手に使う人もいます。よく、瀬戸内寂聴さんや吉本隆明さんが「年をとると、幸福を小刻みにしないといけない」とおっしゃいます。例えば、「今夜の晩ご飯に好きなおかずが出るだろうか」そのことだけを考え、思っていたものが出てきたら「ああ、幸せだ」と思えばいい。それ以上のことは考えず、小刻みに小刻みに幸福を考えて、いろんな幸福感を絶えず味わっていくようにすれば、それが一番よい老後になるのではないかということです。
このやり方で生き抜いた人が、ドイツのユダヤ系精神科医フランクルです。彼がアウシュビッツに収容されたとき、「いつ殺されるか」「妻がまだ生きているか」ということばかり考えていると、時間が全然経たなくて非常に苦しい。そこで、「いつここから出られるか」「いつ彼女に会えるか」という大きな期待をいっさい捨て去って、「今晩夕食にソーセージが出るだろうか」「ソーセージが出たら、彼のタバコと交換できるなあ。それとも、彼の針金と交換して靴を修理しようか」などと、自分の期待を小刻みにして、ともかく夕飯が出るまではそれでもたせる。夕飯が過ぎれば明日の食事のことを考え、それで時間をもたせて最後まで生き抜いたわけです。そういう意味では、期待することにもプラスの面があります。
「待つ」ことのむなしさ
私が今日お話ししたいのは、「待つことを断念してなおかつ待つ」態度のことです。
日本語には、「待つ」ということをコアにした表現がとても多いです。待ちわびる、待ち遠しい、待ち構える、待ち伏せる、待ちあぐねる、待ちこがれる、待ちかねる、待ちあかす、待てど暮らせど、待ちぼうけ……。これらは、ほとんどが「待つことが報われない」表現なのです。
実際、「待つ」ことのむなしさを、日本語を使う私たちはリアルな部分として捉えています。たいていの人は、自分から離れていった大事な人を待つとき、いちばん最初に悟るのは「待っている」という顔をしてはいけないということです。待たれるということはとても心の負担になるので、待ってるふりをしないで、でも祈るような気持ちで待つようになります。
でも、そうしたからといってすぐに効果が出てくるわけではなく、いつまでたっても帰ってくる気配がない。そのうち、こんなにまでして待っている自分が情けなく、哀れに思えてくる。自分が待ってるのを忘れるくらいにならないと、この時間が耐えきれないというふうになってきます。だから、例えば相手が好きだった音楽CDを全部片づける、テレビドラマを見ないようにするなど、「待っている」ことを自分でも意識しないようにします。それでも報われず、自分がここにいるだけでも苦しくなってきて、いっそのこと消えてしまいたいというところまでいってしまうのは、私にも想像がつきます。
前傾姿勢の近代社会
「待つ」という気持ちを抑え込んで、それでもなおかつ期待しないで待つ。どうしてこんなしんどいことをしなければならないのか。これは、「待つ」ことを放棄してきた私たちの課題のようなものです。
第一次産業は、待つのが仕事でした。農業では、おいしい果物・野菜・お米を収穫するためには、急いではいけないのです。こちらがやみくもに動いてはいけなくて、むしろイニシアチブを放棄しなければならないということ、「待つ」ことが命を世話するのにいかに大事かを昔の農業生活者は知っていましたから、子どもも痛い思いをして自分で悟るまで待ってやらないといけない、親がいくら言っても聞くものじゃないとわかっていたんです。
ところが、社会が近代化して産業社会になっていくと、「待つ」とは正反対のメンタリティで社会を組織し、社会構造・生産活動をコントロールするようになりました。
事業(project)を立ち上げる、その際にまず最初に利益(profit)の見込み(prospect)があるかどうかを見極め、事業の計画(programming)を行い、製造業なら生産(production・produce)体制に入り、製品ができれば販売促進(promotion)、商品がある程度流通したら約束(promise)手形で集金し、利益が出れば事業活動の前進(progress)となり、前進させた担当者は昇任(promotion)する。これら企業活動に関わることばは全て、「先に・前に」という意味の「pro」にラテン語かギリシャ語の動詞が付いてできたものです。先のことを考えて今何をするかという前傾姿勢、前のめりの意識であり、私たちの社会活動はまさに、この前傾姿勢で営まれているのです。
なぜ前傾姿勢になるかというと、より早く目的地に達するため、あるアイデア・発見をより早く自分のものにするためです。それをより早く、より効率的にやった人が、企業の競争に勝つ。だから、時間の無駄を省くことが、いちばんのポイントになってくるわけです。
ということは、未来がいつか来るのを待つというのは、近代社会では最悪の姿勢になります。訪れを待つ、時が満ちるのを待つ、機が熟すのを待つ、長い目で見るなどということは、教育では一番大切なのですが、そういうメンタリティは怠惰・さぼりだというふうに捉えられることになるわけです。そうした中で私たちは、待たないでいいように・待つ必要がないようにという行動のしかたを推奨し、それをサポートするような商品・装置の開発をずっとやってきたということです。
「待つ」仕事としての「聴く」
「期待せずに待つ」ということは、たいへんにしんどい。そのいちばんしんどいことを職業にされている方が、精神科医、カウンセラー、教師、ボランティアで命の電話を受けていらっしゃる方など、「聴く」ことを仕事にされている人たちです。この人たちは、「待つ」ことのしんどさを仕事のエッセンスにされている方々です。最後に、「待つ」仕事としての「聴く」ことのたいへんさ、その中に一つの希望があるということをお話ししたいと思います。
相手が語りきるまで聴く
「聴く」ということもまた、今の評価制度にいちばんのりにくい営みの一つです。「この一年、私はただただ話を聴いてあげていました」と言っても、「それがどうした」ということで、点数にならないのです。これは、私たちの社会が、「何ができるか」「何をするか」で人の存在価値を測る社会になってしまっているからです。そんな中で、誰かに話を聴いてもらうと、ふっと気が楽になることは、みなさんも経験があるでしょう。なぜ「聴く」ということに、そんな「人を楽にする」力があるのか。
例えば、がんの再発・転移を何度も繰り返してらっしゃる方がいるとします。「なんで私ばかりが、こんなに辛いめにあわなければならないのか」という思いにかられます。あれだけ堪え忍んで克服したのに、やっと不安から解放されたかと思うとまた再発し、本当に疲れて気落ちしてしまう。
そういうとき、「もし私でよかったら」と話を聴くのは、とても難しいことです。本当に苦しい人は、聴いてほしいと思いつつ、やはり話したくないからです。
なぜかというと、まず、忘れたいことだからです。不安や恐れは片時でも忘れていたいという思いがあるので、そもそも聞いてほしいと思いながらも話すのはおっくうだという前提があります。
2番目に、言っても詮ないことだからです。「なぜあの人ではなく私なのか」という問いには答えがないということを、ご本人もわかっていらっしゃるのです。
3番目に、「この苦しさは、経験していない人に言っても絶対にわかってもらえないだろう」ということがあります。一言言ったら「相手に届いているだろうか」という感触を確かめながらでないと話せないので、とつとつとした、断片的な語りになってしまいます。
そうすると、聴いている方はしんどいですよね。親しい人といい話をしていても沈黙は居心地が悪いのに、それが重い話で、しかも沈黙がずっとあったりすると、耐えきれないし、聴くのがつらい。それで多くの人が、「あなたが言いたいことは、こういうことじゃないの」という対応をします。語ることのできない人がそういう誘い水を向けられると、「そうそう、ほんとによくわかってくれた」と、その物語に乗っかってしまうんです。そしてそのときには気持ちが楽になったような気がするんですが、じつはこれが最悪の聴き方なんです。「聴く」ことの意味、語ってもらうことの意味を台なしにしているからです。
自分のふさぎ、悲しみ、苦しみについて、なぜ語りきらないといけないのかというと、ふさぎや苦しみとの関係を変えるためなんです。昔のできごと、今のできごと、昔の思い、今の思いを並べ、それをある程度の因果関係をつけながら整理して語る。それが、しんどいこと・苦しいことにおぼれていた自分がその苦しみとの関係を変えること、つまり、対象化して、自分から引き離して、物語として語るということなんです。だから、自分で語りきらないと意味がない。
「あなたが言いたいのは、こういうことじゃないの」と言う人は、相手が苦しみながらも語りきるその物語を横取りして、代わりに語ってしまうんです。そうすると、その場では「うれしい」「楽になった」と思うかもしれないけれども、まだ一度も語りきっていないのだから、結局元の木阿弥になってしまいます。だから、相手が自分で語りきるまで聴かないといけないわけです。
「聴く」テクニック
これは、もちろん、ものすごくしんどいことです。私も『「聴く」ことの力』という本を書くときに、こんなことが普通の人にできるのだろうかと、傾聴の研究をされている先生に「何かコツがあるのですか」と聞くと、その先生は「沈黙が続いたとき『今、何をお考えでしたか』と言うとよい」とおっしゃいました。なるほどと思いましたが、ふと想像すると、黙るたびにそれを言われると、むかついてきますよね。これは、あるとき一回だけしか使えないものだと思いました。
亡くなられた河合隼雄先生と対談する機会があったとき、「何かコツがありますか」と聞くと、先生はすかさず「どんなつまらない話でも、ともかく相手が一言言ったら、『ほお〜』『ほお〜』と言いなさい。これは数回通用するけど、あまりやったら『バカにしてるのか』と思われる」と。
それでも、やっぱり数回まででしょう。それだけではすまないだろうと思って、私が学びに行くことにしたのは、カウンター越しの先生、バーテンダーさんやママさんたちです。
彼らは、それでお金を稼いでいるだけあって、それだけのテクニックを持っていらっしゃいます。それは何かというと、ただただひたすら聴くのではないんです。はぐらかしたり、そらしたり、突っ放したり、取り合わなかったり、からかったり、いろんな術を使われるんですね。押したり引いたりが、ものすごくうまいんです。そして最後は、聴くことの反対、こんこんと説教する。それがやみつきになるんですね。それでまた、説教されたくてしゃべりに行ったりする。これは本当に勉強になります。
「時間をあげる」ということ
では、臨床心理士や医師が患者の、親が子どもの、水商売の人が客の話を聴く中で、共通しているエッセンスは何でしょうか。それは、「時間をあげる」ということなんです。
例えば命の電話は、「これから死にます」という人が納得して自分から受話器をおろすまでは、とにかく聴いてあげるという仕事です。看護師さんやお医者さんもそうですし、学校の先生も、なんだかんだ言いながらも生徒のために時間をとる。
その間、イニシアチブは自分でとらないで、相手が納得いくまでいっしょにいてやる。カウンター越しの人たちも、相手が「ああ、もうこんな時間か」と妙に納得して帰るところまで、ちゃんとつきあってあげる。私は、こういう「時間をあげる」ということが、これから私たちが創っていかなければならないケアの文化、ホスピタリティの文化の根幹になる部分ではないかと思います。
前のめりに少しでも能率的に効率よく、少しの時間で多くをという文化を象徴することばが、ベンジャミン・フランクリンの“Time
is money”です。「時間はお金である、だから無駄にするな」という論理です。ポスト産業社会の中で私たちがもたなければならないことばは、同じように“Time is money”なんです。「時間はそれほど大事なもの、だから気前よく人にあげなさい」ということですね。
私は、これが本当の意味での自由、与える自由こそが本当の自由だと思うんです。
“liberty”から“liberality”へ
日本人は、「自由」というと“liberal”を思い出します。でも、辞書で“liberal”と引くと、1番に出てくるのは、「気前がよい」という意味、2番目は「たっぷりと・豊富に」、3番目は「寛容」です。4番目にやっと出てくるのが、「自由な」とか「自由主義の」という意味なんです。私たちが「自由」という名詞を考えるとすぐ出てくる“liberty”は、この4番目の意味の“liberal”の名詞です。1・2・3番目の意味の“liberal”の名詞は“liberality”(気前のよさ)です。
私たちはこれまで“liberal”や“liberty”しか考えてこなかったのですが、じつは“liberality”の意味の「自由」もあるということを思い出す必要があります。そして、「待つ」ということ、「聴く」ということを、しんどいけれどもしなければならないのは、時代の心のあり方の大きな転換になるからなのです。“liberty”から“liberality”へという、大きな転換です。
“liberty”とは自分の思い通りになるものがあればあるほど「自由」だということですが、“liberality”の「自由」とは「人にあげる自由」なのです。すなわち、「贈与(donation)」という考え方に、ポスト産業社会の中で変えていかなければならないわけです。
「贈与(donation)」の大切さ
このことが世界でいかに大事にされてきたかは、ことば一つとってもわかります。臓器移植などで話題になりますが、donationする人を「ドナー」といいます。それと同じ語源から出てきた日本語は、「旦那」なんです。サンスクリット語の「ダーナ」が西に行くと「ドン(フランス語で『贈り物』の意味)」になって「ドナー」、東に行くと「旦那」になったんです。
「旦那」と「ドナー」は、どちらも自分の一番大事なものを他人に施す人です。臓器を人にあげる人、自分の稼いだ大事なお金を気前よくあげる人です。ちなみに、「サービス」に当たる日本語は「世話」なんです。これもサンスクリット語で「セーバー」ということばが、東に行って「世話」に、西に行くとフランス語の「セルヴィール」になるんです。このように、人に何かを施す、何かをしてあげるという本当に大事なことは、東でも西でも同じことばを共有しているのです。
オバマ大統領の訴える“responsibility”
アメリカ新大統領は就任演説の最後の章で、「これから私たちアメリカ人は、『新しい責任(responsibility)の時代』を迎えるのだ」と、みんなに呼びかけました。日本語では「責任」というと義務的な感じがしますが、“responsibility”とは「反応する・他人に応じる用意がある」ということなんです。私たちは“responsibility”を「責任」と訳していますが、両者は語感としては全然違います。あえて言えば、震災以降多くの人たちが関わるようになった「ボランティア」が、“responsibility”に近いかもしれません。
今、オバマ大統領が訴えているのは、「責任感を持て」というような意味ではなくて、弱い人から、遠くの未知の人からの訴え、求め、促し、呼びかけに対して、「どんなものであっても自分は応える用意がある」という心根を持とうということなんです。
今日は、「待つ」「聴く」ということ、自分の一番大事な時間をいつでも他者にあげる用意があるということ、こういうマインドにこれから変わっていかなければならないということなどをお話ししました。これらは意外と、オバマ大統領の「責任」という概念の近くにあることだなあということを最後に確認しまして、終わりにしたいと思います。
聴衆を魅了した鷲田氏の記念講演会