続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(16)  PDF

続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(16)

夭 折

 大崎和男のことを書こう。彼は同じ時に大学に入学したが、理科乙類で同級生になったことはない。ただ彼は豊岡中学の出身で父が開業医だったこともあり、ときおり話をかわしたことがあった。彼は長身で色白、全くの美男子だった。前に書いた松村博も美男子だったが、彼は小柄で可愛らしいといったタイプだった。

 大崎の松江時代の特徴は語学、つまり初めて習ったドイツ語のすばらしい、天才とも言うべき学生であったことだ。いろいろな雑誌や書籍を乱読して、語学の天才はままあることを知った。特に物理とか数学ができるわけではない。ただ語学だけが飛びぬけているのだ。クラスが別なので、教室での大崎の活躍は見ることができなかったが、ただ理乙の仲間から噂を耳にした。当時、松高にはドイツ人の講師が1人いた。ぼくたち理甲生も1週間に1回授業を受けた。ナチスの党員だったと聞いたが、これには確かな証拠がない。くり返しくり返し、ごく初歩的な授業を受けた。前にもちょっと触れたが、岡村教授が第二外国語の担当でさんざんしぼられた。その後彼は神戸大学に移り、鴎外ばりの歴史小説を書いたと聞いた。いやこれは余分の話である。理乙の人から聞くと、大崎はドイツ人の時間、2人でむつまじく会話をしていたとのこと。大崎はドイツ人の家を訪問したそうだ。彼から話を聞くと、ドイツ人は日本の配給制度を強く酷評したそうである。

 ぼくは大学で大崎と同級になった。何回も書くが、ぼくのドイツ語の知識はしれていた。ドイツ語の使用の多い授業になかなかついていけなかった。一度大崎が欠席し、ノートを貸してくれとの依頼を受けたことがある。ぼくは赤面したが、「ぼくのドイツ語はスペルが違っているかもしれないが」と言い訳をして手渡した。彼はぼくのノートを批評することなく、「有り難う、すまなんだ」と言って返してくれた。

 2人とも父が開業医なので、話し合うとどちらも薬品の不足で困っているとの話題になった。ぼくは町に出ると薬屋さんなどで、消毒用アルコール、絆創膏、乳糖、カマグ、重曹、硫酸マグネシアなどを入手し、父の許に送った。それらがいかほど父の役にたっているかは知らなかった。別に隠していたわけではないが、それを大崎が発見し、ひどく驚いていたのを見たことがある。そしてうちは、かかりつけの特定の人しか診察しない、と言ったことを覚えている。大崎は大学でインターンを終了したようだった。昭和24年の終りか25年の初め頃、京都大学の大講堂だったと思う、ぼくは松江時代の旧友たちと久しぶりに会った。理乙時代よく勉強ができた小柄な瀧がぼくを呼び止めた。

「おい、谷口。大崎が死んだよ」

ぼくは動揺した。

「何だって?」

 大切な試験を前に、ぼくは驚いてふらつく気持ちがした。インターン中、病院が違っていたので、忙しいこともありぼくは大崎との連絡がなかった。文通も電話もしていない。大崎は国家試験の朝、突然死をしたのだ。数日前から体調が悪いと言っていたそうで、国家試験を次回にのばそうかと語っていた由。急性心不全、虚血性心不全と言ったようなことだろうか。語学の天才はあっけなく死亡した。哀悼の思いで唇をかむ。

 大崎の弟は宇宙物理というか、天文学といおうか、その方に進んだそうだ。その次の弟、つまり末弟は医師になり父の後を継いだが、車の事故でなくなった由。ぼくはそのお二人に会ってないが、風の便りに聞いた。

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