続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(14)

続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(14)

古い友

 またタツノのことを書こう。話が残っている。高校に入って自習寮での初めての夕刻、風呂があるとの達しがあった。放課後帰ってきたら、彼はもじもじし、

「おい谷口。おれは陰部を見られるのが嫌でなあ。どうしたらいいだろう」

 彼は集団の風呂場で前を隠すことを知らなかった。30分位して帰室して言った。

「ふーん、皆うまくやっとるなあ」

 彼にはもう記憶はないだろうが、その後の彼のがむしゃらな勉強ぶり、負けん気の強さなど追想すると、ほほ笑ましいエピソードである。

 彼は東大を卒業して鐘紡に入社し定年まで勤めた。最後は下関の近く、名前は聞いたが忘れた、某大工場の工場長を勤めた。その後は知らない。ただ2度だったと思うが、開業をしているぼくの所に来てくれたことがあった。

 年賀状の交換は続けていたが、5年ばかり前から筆跡が乱れた。文字が読めない。2回だったと思うが、そのあとは全部印刷になった。そえ書きはなかった。ぼくはいささか不安になり、施設にでも入ったかと訝って、思いきって電話をした。1回目はかからなかった。数日後2回目をかけたら、女の声で滝野だと名乗った。息子さんのお嫁さんですか、と尋ねたら、やや笑いをふくめて娘です、との反答だった。娘さんの話によると脳梗塞を病み、屋内では自力で移動ができ、自宅にいるとの返事。今休んでいますので、悪いですが谷口さんのことは伝えます、とのしっかりした応答があった。滝野の娘だから賢いのは当然だろう。

 数日後、先方より電話があった。娘さんの声で「本人に代わります」思ったより彼の声は元気だった。全く昔と変わっていない。梗塞は軽かったんだろう。痴呆はない。

「奥さんはどこから貰われたんですか?」

 賀状の彼の名前の横、カナ字で夫人名が記されてあった。

「埼玉だよ。頭はちょっととろいが、嫁はそのくらいがいい。子どもは女ばかり3人だ。そして孫はそれぞれ3人、合計9人。正月にはとてもとても騒(さわ)がしいこと、お年玉も大変だ、今年はまだやってないけどな。鐘紡の年金では食えんわ。そうだ、何とか総理が金をくれるんだろう。そいつを廻そうと思っとる。眼が悪くてなあ、両眼ともでこれが一番困るんだ。それにしてもあんたの宮津高校校歌はよかったなあ。今でも詩を書いているんかい」

「有難う。あの校歌だけが残した仕事だと思っとるんだ。詩は60年書いて結局無名さ。全国的に通る詩集は未だ出していない」

「いや、あの校歌だけはよかった。それだけをあんたに伝えたかった。だがこの世の中、淋しいな、開業医に世話になっとるが死んだり、止めたり、嫌でも医者を変えんならん。いま14種の薬を飲んどるよ。こんなこと淋しいなあ。それでも死にたくのうて」

 娘さんが腕を引っぱったんだろう。電話は切れた。アウフ・ヴィダー・ゼーエン、さようなら、再び会うことはあるまい。

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