続々 漂萍の記 老いて後 谷口 謙(北丹)
<10>異性(松村博とからめて)
宮津中学時代は下宿の窓から、下の本町通りを通る女学生の姿をよく見かけた。汽車通学の時は前一両が中学生、後の両が女学生と決まっていたから、駅頭で見かける位、話をしかけるいとまもなかった。また、そんなことをしたら5年生に見つかり大変なことだった。宮津に住んでからは時々、登校時の女学生に会った。ちなみにぼくたちは女学生のことを/ジー/と呼んだ。ガールの頭文字である。女学生サイドは中学生を中と言ったそうだ。松江に行って寮に入ったとき、全く女気はなかった。唯一人寮の賄いをしていた夫婦の娘さんだろう。17、8歳位の女性がいた。夜遅く寮の風呂に行ったら、その娘さんが仕舞い風呂に入っていたとのニュースが流された。そのため何人が夜遅く入浴したかは知らない。
同級生に松江中学から四修で入った松村博がいた。松村については書きたいことが多いが、前の連載の時には触れなかったと思う。小柄で美男子で上品で、いかにも育ちの良さを思わせる生徒だった。家業は紙の問屋で、駅に近い寺町通り、大きな店構えだった。出雲紙という和紙があったと思う。不思議な縁で拙宅には2回来て1泊してくれた。初回の時は西方兵衛も一緒だったと思う。2回目はぼくが妻帯してからだから、昭和26年10月15日以降、おそらく翌年の気候のいい頃、春か秋だったと思う。その頃、彼は未婚で阪大工学部を卒業し、何省だったか忘れたが、商工省ではなかったかと想像する。特許の審査をしていると言っていた。彼が結婚してから、天橋立があるから2人で来なさいと何回も誘ったが来なかった。奥さんの癌死、長女の結婚、このあたりまでは知っているが、いつからか文通は途絶え、賀状を出しても返信はなく、だが転居先不明で書状も帰ってこず、電話をしても出ず、そしてこの電話は唯今使われていません、の説明もなかった。松村との縁は切れた。
話を元にもどそう。松村には母がなかったようだ。妹が2人あった。ぼくと松村との交際が始まって間もなく、無性に彼の家を訪問したくなった。だがぼくは、臆病で独りでは彼に発言できなかった。それで米子中学から同じく四修で入った例の西方と相談し、2人で訪問することにした。松村には兄さんがあり、お父さんの仕事を手伝っておられたと思う。当時は未婚のようだった。ぼくと西方は2階の奇麗な部屋に案内され、彼の妹が2人、お茶とお菓子を捧げるように持って来た。姉の方が少し背が高かった。松村の妹だから姉の方は松江高女の3年か4年、妹の方は1年か2年位だったろうと想像する。見目形は全く何も覚えていないが、松村の妹だから美人だったろうと、ぼくは独りできめている。だが西方は2人とも色が黒いと言った。西方と松村の交際はぼくよりずっと古いから、妹たちとの交流もあっただろうと思っている。
また後のことになるが、姉の方は松高で1級上、理科甲類、市内で醤油製造業をしている男と結婚したが死亡され、妹さんは生存中とお聞きした。