続々 漂萍の記 老いて後 谷口 謙(北丹)―<8>浜田
松江高校、2年生の時だったと思う。2年生全員、理甲が3組、理乙が2組、文甲、文乙1組ずつ、1クラスが40人だから、欠席者がなければ合計280人になる。特別列車を使用し、浜田まで勤労奉仕に狩り出されたことがある、何の目的だったかは忘れた。とにかくスコップを使い、土を運ぶ仕事だった。ひょっとしたら、軍関係の仕事だったかもしれない。特別列車で行ったのだし、この時の列車のスピードはすごく速かった。
学校から、稲刈りの仕事にはよく出かけた。白米を充分に食べさせていただき、嬉しかった。農夫の人たちは地元の高校生に対し、ある種の好意を持っていてくれた。ぼくたちの飢えも充分に知っていた。だが仕事は、午後から夕方までだった。
浜田では、土地の青年団とも一緒に仕事をした。クラスには、なかなか気のきいた役者がいて、独りで漫才の独演のようなことをした。だが、たいていは流行歌を歌うことだった。ぼくの記憶違いかもしれないが、「支那の夜」がよくはやっていた。地元の肥った青年が独唱、学生側から
「いよう、双葉山!」
といった野次がとぶ。青年は、頭をかいて退場をした。
女子青年団の中、目立って美貌の女性がいた。何の歌だったかは忘れた。松高生の中から、はかって組み、野次を左右からとばした。
「そばや」
「かすや」
彼女の顔にはうすい雀斑★そばかす★があった。
食事は毎日3回、どんぶり一杯の白米だった。合計して1日分何合であったかは知らない。胃腸の悪い者にはかゆ食が都合された。浅田なる同級生が朝食にかゆ食を所望した。ついでおかわりをした。現場には付きそいに教授が2人来て、数日で交替をした。
某数学教授の目録を盗み読みをした者があり、それには「かゆ食のおかわりをした 浅田」と書いてあった由。
浅田は阪大工学部を卒業し、京都市内では有数の会社の副社長まで昇った。クラスでは出世頭との評判が高い。
浅田武氏からは、年賀状を貰った。「小生も年相当に健康保険証を使わせてもらってます。お互いに健康な老後を楽しみませう」と添え書きがあった。浅田さん、めったにこの文章があなたの目に入ることはないと思いますが、万が一、お読みになったらお許しになって下さい。でもやはりあなたが有名人なのですから。