会員投稿/夏の琵琶湖周遊/植田謙次郎(伏見)

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夏の琵琶湖周遊/植田謙次郎(伏見)

(写真上)近江舞子中浜の2番の歌碑、(中)近江今津港の3番の歌碑、(下)竹生島の4番の歌碑

 夏が来た。私は夏が好きだ。

 夏の香を琵琶湖に求めて、湖畔の周遊を試みた。私の周遊行には、意識の中に一つの歌があった。それは「琵琶湖周航の歌」。6番までの歌詞を3拍子にのせたこのワルツは、100年近くも前に生まれた古い歌だが、今も歌い継がれている。

 琵琶湖周航と言い古されてきたのは、ボートで大津から時計回りに湖上を3〜4日かけて一周することである。その遠漕の間に目に映る各地の風物風景に託して、若人の熱い気概と壮大な気宇を詠み込んだ周航の歌は清々しい秀歌。いつも私を和ませ活力を与えてくれる。

 夏の日、私にボートは無理だから、鉄道、船、バスを乗り継いで、周航の歌に詠まれている順に湖畔の各地を主に陸路で訪ねた。

 歌の1〜6番のそれぞれに登場する土地に因んで湖畔の6カ所には歌詞を刻んだ碑が建てられている。1番の歌碑は大津、2番は近江舞子、3番は近江今津、4番は竹生島、5番は彦根、6番は近江八幡、それぞれの湖畔の波打ち際にある。歌碑にはかなり大きな自然石が使われているが、石質、形、色、大きさはさまざまで1973〜2005年の約30年間に次々と作られた。それらの歌碑を訪ねることも私の周遊の目指すところだ。

 ?われは湖(ルビ うみ)の子 さすらひの 旅にしあれば しみじみと のぼる狭霧(ルビ さぎり)や さざなみの 志賀の都よ いざさらば?と歌い出す1番は、大津からボートで遠漕に乗り出す心の昂りを詠む。京阪浜大津から湖畔まで少し歩く。三保ケ崎の波打ち際に艇庫があり、これが周航の出発点となる。艇庫の裏の小高い台地の草原に大きな石碑があり、歌詞が刻まれている。建立は1973年、最も古い歌碑だ。木造の古びた艇庫の正面には大きな三高の帽章が画かれている。第二次大戦後に程なくして消えた旧学制の高校(第三高等学校―京都―生徒は現在の学制の高校3年生、大学1〜2年生の年齢に当たる)の生徒の黒い帽子を、3本の白線とともに飾ったものである。三高に学ぶことは当時の若者にとっては憧れの的であった。現行の学制の高校で育った私には経験できなかったことだ。

 2番は雄松ケ崎の様子をロマンチックに詠む。JR近江舞子から湖畔まで少し歩くと、近江舞子中浜の松並木の中に大きな石碑が目につく。バックは雄松ケ崎まで続く白砂青松の浜を望む景勝の地だ。

 再びJRで近江今津へ。近江今津港まで歩く。小ぢんまりした木製の桟橋のたもとに3番の歌碑が立っている。実は、周航の歌が生まれたのはこの地である。

 三高の生徒達が明治26年(1893)にボートで琵琶湖を周航する壮挙に先鞭をつけて以来、この遠漕が恒例の夏の風物詩となっていた。大正6年(1917)の周航のときに近江今津の合宿で一人のボート部員が自作の詩を披露したのであるが、その詩を、同宿していた同僚が聞き覚えていたあるメロディーに乗せたところ、ぴったり嵌っていい感じの歌になった。作詞者は小口太郎、作曲者は東京の高校生吉田千秋。大正4年(1915)に発表されたこのメロディーは、詩と全く無縁の「ひつじ草」と題された曲であった。思いもよらぬ奇縁で詩と曲が偶然にドッキングして名歌が誕生したわけである。

 今津港から小さな船で竹生島に渡る。下船した目の前に大きな碑があり、4番の歌詞が刻まれている。後方の竹生島神社の朱色が周辺の木立の緑に映えて美しい。

 再び船で対岸の彦根へ渡る。彦根港の小さな広場の一隅に5番の歌碑がある。周辺の比良や伊吹の山々の遠景に彦根城の佇まいを詠んだものだ。2005年の建立。最も新しい。港よりかなりの道程を歩き、歌詞そのままに夏草が繁る古城の濠端に立つ。

 JRで近江八幡へ、そしてバスで長命寺港前の広場に着く。岬の山上にある長命寺への登り口のあるところだ。広場の真ん中の草むらに石碑が立っている。

 刻まれている最終6番は?西国十番 長命寺(ルビ ちょうめいじ) 汚れの現世(ルビ うつしよ) 遠く去りて 黄金(ルビ こがね)の波に いざ漕がん 語れ我が友 熱き心?とある。崇高な人生の目標に到達するべく万難を排して漕進しようというのだ。

 夏の遅い夕暮れ、対岸に沈む夕陽の黄金色の光に包まれ、歌詞にこめられた清々しく壮大な気概に感動して、周航の歌を小さくハミングしながら私の周遊を終えたのであった。

 今年も夏を迎える。夏を満喫しながら湖上を渡る涼風に乗せて、流れるような3拍子のワルツを、湖畔で、また、口遊んでみたい。

(2009・7・1記)

(写真上)大津・三保ケ崎にある琵琶湖周航出発点の艇庫、(中・下)艇庫裏の台地にある歌碑

 

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