続々 漂萍の記 老いて後 谷口 謙(北丹)―<7>松江城
母の没年に近くなり、母のことを書こうと思う。医業に専念し、ほとんど住居を離れなかったぼく。毎日顔を合わせていると、話にはならない。ぼくは末子で、たしか母が37歳の時の子どもだ。松江高校に入って、初めての夏休みの終わった頃だと思う。母が突然松江にやって来た。めったに見ない美しい和服姿で。当時、松江で1番だった大橋の袂<ルビ/たもと>の旅館、当時はまだ立派な食事ができた。自習寮のそれは粗末だったが。
学校では1学期の試験の成績が発表されたところだった。ぼくは立体感覚がなく、図学が苦手だった。高木という、なぜか勲三等の図学教授の成績は零点だった。臆病なぼくは落第を恐れた。母にくどくどドローイングの難しさを訴えた。母は何もわからなかったのだろう。うんうんと言ってうなずいた。
ぼくは母を小泉八雲の旧居と松江城に連れて行った。母は失笑した。母の故郷の姫路城には及びもつかぬ貧弱な城だ。母の祖父は姫路藩勘定奉行、父は姫路町収入役だった。母は松江城を笑殺した。母は気位の高い女だった。
母の帰後、父から便りがあった。丈夫で何よりだ、図学の成績には触れていなかった。
これは蛇足だが、高木教授は3学期の試験でやさしい問題を出し、ぼくらを救ってくれた。
(松江市の誇る松江城のことを悪く書いてすまなく思う。ただしこの件は昭和17年9月か10月のことである)。
当時の松江高校正門(上)と自習寮(下)