続々 漂萍の記 老いて後 谷口 謙(北丹)―<4>下宿

続々 漂萍の記 老いて後 谷口 謙(北丹)―<4>下宿

 宮津中学3年生の1学期の終わり頃だったと思う。父兄会があり、母が出席、担当の藤島先生とぼくの高校受験のことを相談した。先生は母に、先ず汽車通学は止め、宮津町内に下宿させなさい、さもないと高校受験合格は絶対だめですよ云々。母は帰って父と話し合い、姉2人がいたものだから、商売に来ていた宮津町の膝皆屋稲垣さんに依頼をした。彼はすぐに返事をくれ、宮津町本町の殿村薬局さんを紹介してくれた。子どもがなく、いつも1人の宮津中学生か、宮津女学校の生徒を置いているとの話だった。いつからだったか記憶がはっきりしないが、2学期の秋頃だったと思う。

 父はどうしてもぼくを医者にしたかったらしい。父は継母に育てられたので、苦心惨憺、何のつてがあったかわからないが、東京帝大内科教授、大正天皇の侍医だった入沢達吉氏宅の玄関番をして、済生学舎等に学び、医師検定試験に合格、郷里で医院を開いたのである。それでぼくを京都大学出の医者にしたかったのだ。ぼくは末子で12歳上と10歳上の姉があった。中学時代、悪餓鬼が「おまえの親2人は2人の女の子ができたので、もう子どもはできれへんと思って毎晩ぎゅっぽんぎゅっぽん、やっといたらお前ができたんだ」と、ぼくをからかったんだが―。

 殿村さんは裕福だった。当時宮津で一番の現金持ちだとはやされた。夫人は後妻さんで子どもはなかったが、これも宮津一の美人と呼ばれていた。2階と離れの2室があったが、ぼくは2階を選んだ。窓を開くと本町通りが眺められる。当時の宮津は潤っていた。祭りや大売り出しの日は、橋北方面から汽船を使い、お客がつめかけた。だがそんなこととは別に、ぼくは汽車通学の下級生いじめ、5年生の威張り、などから解放されて嬉しかった。何といっても町内だから、上級生がいたが、対面すれば敬礼すればよかった。はっきり言って、両親から離れたという言い難い開放感があった。それは松江高校に入って寮生活を送った時、きびしいしっぺい返しが待っていたのだが。

 父母はよく、殿村氏につけ届けをしてくれたのだと思う。ぼくが居ついて数日後、稲垣さんがやって来て、

「独り息子のお坊ちゃんで気ままだと思いますが、よろしくお願いします」

と挨拶をした。ぼくはそれを聞き、ぼくは気ままなんかなぁと思い、悲しかった。ぼくは4修で松江に行くまで、1年半ばかり殿村家の2階で暮らしたのだが、その間3回ばかり芦田均氏がやって来て、殿村氏と会食し、お酒を飲んでいたことを思い出す。家の後に池があり、鯉が泳いでいた。日米開戦の近くだったから芦田氏には苦しい時代だったと思う。

 冒頭に書いた苦い水泳のことなど、その頃はどうしていたのだろう。受験勉強は3年半ばから、というのが常識だったから、もう参加しなくても大目に見られたのだろう。当時、受験情報の好きな作業の先生がいて、よく作業―土はこびばかりだったが―の終わった後、京都一中などの受験勉強体制のことなど聞いた。「受験旬報」「蛍雪時代」などの受験誌を読んだし、出題に応答したりした。要はガリ勉をすることだった。寸暇を惜しんで勉強をしたから、水泳、剣道のことなど何の思い出もない。ぼくは1年生の水泳のときから現在に至るまで、海に入って泳いだ経験はない。裏の竹野川の堤防を、英語の単語を覚えるため、ふらふら散歩した追憶が甦るのである。

 宮津の人に聞くと、殿村家は潰れて、あとはないとのことだった。チョボ髭を生やした小柄な殿村さんと美貌の夫人のことを思い起こして、ぼくの貧弱な生涯の一コマだと追憶するばかりである。

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