特別奇稿 高齢者転倒事故の高額賠償を阻止
弁護士 莇 立明
新聞を見ると、「介護疲れ73歳夫刺殺容疑」の見出しで、大阪で脳梗塞を患い、ほぼ寝たきりの夫を71歳の妻が刺殺し殺人容疑で逮捕されている。「介護に疲れた」と話しているという。
最近、裁判所で経験した事例。
83歳の父親を自宅介護できない長男(50歳代)が、父親を老人保健施設のショートステイへ入所させた。父親は自宅でしばしば転倒しており、家族の手に負えないとして自宅介護の代行を施設に求めてきたものであり、長期入所を申し込みした。しかし、施設は入所させても転倒が起きるおそれが高いので調査・審査をしたいとして、一旦、断った。すると、長男は父親のための転倒防止の訓練にもなるし、ショートステイで良いから受け入れてくれと執拗に懇請した。そこで施設は、多数の入所者を抱えているが、その受け入れについての人的、物的面の不十分な状況を説明し、父親に対しては、ベッドから離れる際の注意について十分に繰り返し説明して、納得させた上で入所させたものであった。
ところがこの父親は、入所したその日の夜に早くもトイレへ行こうとして部屋を出たところの廊下で転倒し頭部を打撲した。しかし、医師が診察して、意識は清明で発語もあり、自力で立ち上がったりしており、脳内の神経的症状は全くうかがわれなかったので頭部外傷の縫合を行って、経過を観察したのであった。
ところが、3時間を経過してから嘔吐があった。そこで緊急にCTを撮ったところ意外にも脳出血が認められた。急遽、脳神経外科のある他の病院へ転送したのであったが、その後、症状が悪化して死亡されたのである。
長男は、父親の転倒に対する施設の管理の不備、CT撮影の遅れ、緊急手術の遅れを主張して計4500万円の損害賠償を求める裁判を起こしたのであった。
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近時、介護施設における人手不足、職員の過重、超過労働、低賃金などで職場を去る人が多く、就職希望者が少ない。連日の新聞が報道するとおりである。入所者の施設における怪我や転倒事故などが多いこと、事故については被害者より多額の賠償請求がなされ、訴訟沙汰となるケースが頻発していることも、介護職場に働く人達の労働意欲を削ぎ職場を離れる原因となっている。
この事例では、長男は勤務しており、母親は在宅していたが、高齢で夫の自宅介護ができないとして、代替手段としての施設への入所を希望し、自宅で防止不可能であった転倒事故が施設に入所させれば防止可能である、と信じていた節がうかがわれる。
しかし、施設は人手不足で過重労働の下、職員の稼働能力は限界があり、四六時中、入所者につききり可能な施設は現実には有り得ない。この事例は夜間、トイレへ行こうとしての転倒であるが、患者側弁護士のいう「夜間1時間置きの看視」が仮になされたとしても、とっさの転倒を防止する術はなかったのである。このような実情については、長男は説明を受けて十分に認識できていた筈であるし、現に施設が行った可能な限りの措置については、社会人として理解すべきであったろう。しかし、この長男は、弁護士に依頼し、施設の管理責任と医師の重大ミスを問うて多額の賠償を求めてきたのである。
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実際、この裁判中にも、マスコミは連日にわたって前記のとおり、介護施設の置かれている人手不足、財政危機の状況を報道し続けてきた。施設側は、これらの新聞切り抜きを裁判の証拠として提出してきた。また、長男の賠償請求額が非常識に過大であることをも問題とした。
従来、医療過誤裁判においては、患者側は、医師が「最善、最高の医療」を施行すべき義務を怠った事故である以上、患者の被害回復のために最高額の賠償をすべきであるとし、およそ事案に相応しない非常識に多額な賠償請求がなされる事例が後を絶たなかった(マスコミが医療被害を殊更に煽ったことにも原因があると考える)。医療事故の被害者といわれる患者や家族が、一部の弁護士に相談し、考えてもいないような多額、巨額(何千万円、億円)の賠償金が取れるとの錯覚を抱き、訴訟を依頼する傾向がなかったとは言えない。
この事例もそのような例の一つである。
高血圧、高脂血症、肺気腫の病歴のある83歳高齢者の介護施設における転倒の死亡慰謝料として3000万円請求された。
わずかの日給、月給で働く施設職員が何十年働いても手にすることのできない金額である。自宅で転倒しても一銭も得られない高齢者が、施設に入所して転倒すれば、3000万円以上の賠償金が取れると考えるのは、どこかが狂っているとしか評しようがない。
このような発想を「文明社会の野蛮人」と言った新聞記者がいる(毎日新聞1月6日記事)。「健康で文化的な生活を享受しながら、科学技術の進歩と成果に盲目的、全面的に依存しつつ、陰の部分を見ようとしない、想定外の事態が起きると思考停止のまま、自己本位な要求をし早期の解決をせっかちに迫る」とは。
介護・福祉の仕事に「愛」「自己犠牲」「ボランティア精神」を当然の如く要求しながら、現場職員には「自分が選んだ道だ、文句いうな」式の価値観の押しつけをするのである。本例では、長男も弁護士も、現場介護職員の置かれた状況、転倒回避のために苦労した実際について全く聞く耳を持っていなかった。
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但し、本例では、脳神経外科専門医に意見を聞くと、やはり転倒直後にCTを撮っておいた方がミスとはいえないが、結果的にはベターであったとのことであり、施設側の完全無責を押し通すことは無理があると判断された。
裁判所の和解において患者側は裁判所の説得にやむなく折れて、請求額を4500万円から1500万円にまで下げた。更に1000万円とした。最終、500万円まで下げた。しかし裁判所の意見により350万円(請求額の約10%である)で和解成立となった。
従って、この事件は、施設側のほぼ完全に近い勝訴的和解であり、患者側は完敗に近いものである。
今後、このようなクレーマー的患者の訴訟に対して、患者・市民が踊らされないように注意を喚起し、病院や施設の断固たる意見の開示と抵抗を期待したい。