「満洲国」からの引揚 満洲生まれのつぶやき(17)

「満洲国」からの引揚 満洲生まれのつぶやき(17)

木村 敏之(宇治久世)

内地送還−所持品−

 皆はりきって帰国準備を始めたが、吉林を出るとき準備し、取捨選択して持ってきており手放すことが惜しいものばかりであった。しかし、荷物の制限が厳しく、検査に引っかかればほとんど日本へは持って帰れない。N院長の書かれているところでは、概ね駄目と分かっているものは、金銀及びその製品、現金1人千円を超える額(これは日本政府の決めたこと)、手で握って先端がのぞくような刃物、書いたものは本でもいけない、いっさい書籍は駄目なところ医師に限り専門書は一冊だけ許されたらしい。父はドイツ語のクレンペラーを持って帰った。衣類は身に着けるもの以外は夏、冬一揃えづつ、身分不相応なものはいけない。この最後の条件は検査官が欲しいものはなんでもこれで引っかけることができるということであろう。日本人の持っている財産はほとんど置いていきなさいということである。

 そのうち、内地送還が6月15日と決定された。旧吉林の病院の人たち全てが一緒に帰ることができず、それでも皆で集まって、お別れ会をもつことができた。もちろん小生の家族も一緒でしたが、いざ帰国できるとなると万感胸に迫り、言葉も出ず取りとめもない暢気な話ばかりであったという。「内地に帰れば銀飯を、まぐろのとろを、いやうなぎを」、とか「たくあんでお茶漬けを」など、高粱ばかりを食べていると、思うことは食べ物のことばかりで、母なども時々白いご飯を食べた夢を見たと言っていたのを思い出す。人間いつも食欲は命の証なのである。

 帰国は葫蘆島からと決まり、乗船するまで、錦州で7〜10日間滞在する必要があり、約10日分の食料の準備が必要であった。物々交換、食料飲料水の準備と大きなリュックが一層はちきれんばかりになっていたのを子どもながらも記憶にある。一人ひとりが大きな水筒をぶら下げていたが、もちろん小生も6歳ながら小学生の上級生が持つほどの大きなリュックを背負わされ、皆において行かれないよう懸命に歩いた記憶がある。また、自分には覚えがないのだが、行進しているうちに突然姿が見えなくなり、後方から歩いてきた人が子ども用のリュックを拾い上げたら小生が一緒についていたというエピソードをよく聞かされた。歩いているうちに穴に落ちたのであろうが、大きなリュックを背負わされた幸運、拾い上げられた幸運と、今思ってもついており感謝するばかりである。父は医師免許を破いていたが、救急用としてヨウドチンキの入った銅製の網をかぶせたビンや軍用包帯、ガーゼピンセットなどが入った救急バッグを自分で作成して体にぶら下げていた、せめてもの外科医としての自負心であろうか。帰国後も暫くその赤い十字の付いた袋が家に残っていたが、今はどこにあるのか見当たらない。

 6月15日:午前2時、乗船前の情景と思いをN院長が珍しく語っておられるのでそれを載せたい。

 「皆大きなリュックを背負って四列に並び、社宅の前の電車の線路脇にうずくまって夜明けを待った。服装は、女はもんぺ、男は洋服か協和服であるが、ゲートルは軍国主義の遺物ということで禁止されている。男女ともに高粱の皮で編んだ農夫用の笠で、横から見ると三角に見え、これは軽くて涼しかった。前日の14日まで冬服を着ていたが、15日に夏服に着替えたばかりであった。行軍距離はおよそ3キロぐらいあったと思う。リュックを背負っての行進は信に苦しそうであったが、夜明け前で涼しいのが何よりの幸いであった」

父が所持していた医学書と衛生用品
父が所持していた医学書と衛生用品

【京都保険医新聞_2008年10月20日_4面】

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