「橋下徹現象」を読み解く その2 新自由主義政治家としての既視感と「新鮮さ」  PDF

「橋下徹現象」を読み解く その2 新自由主義政治家としての既視感と「新鮮さ」

 橋下徹大阪市長の言説・行動を見ると、一方で既視感が強くあり、他方である種の「新鮮さ」を感じます。どうしてでしょう?
橋下氏が政治の舞台で華々しい「実績」をあげたのは大阪府政ですが、これは石原慎太郎氏が東京でやったことのまねごとにすぎません。石原氏は、就任直後から都財政破綻を強調し、福祉関係財政の大胆な削減、公務員リストラに手をつけ、その分を多国籍企業の拠点づくりのための大型開発に投入しました。また、学校現場への日の丸・君が代の強制をテコに、東京の教育改革を強行しました。そして、日の丸・君が代強制を、格差と選別の教育改革を強行する決め手としての教職員統制の手段としてフルに使いました。
橋下氏が府知事就任以降おこなってきた、財政危機を口実とした福祉切り捨て、公務員削減攻撃、教員基本条例をテコとした教職員統制も、石原都政とウリふたつです。

 ところが、橋下氏が全国政治に打って出る際には、別のモデルを真似ています。小泉純一郎氏の政治です。前回紹介した「維新八策」で橋下氏が統治構造改革の目玉にした政策―参議院廃止、首相公選制など―は、小泉氏が、すすまぬ新自由主義改革強行の奇策として掲げた方針でした。それだけでなく、橋下氏が掲げている新自由主義急進路線の全体系は、小泉政権期にほぼ出そろったもののリサイクルにすぎません。また橋下氏が「大阪都構想」を掲げ、これ1本で府市ダブル選挙に臨み大勝を博したやり方も、小泉「郵政民営化」選挙の猿真似です。
しかし、橋下氏が石原・小泉両氏の「二番煎じ」というと、ちょっと違うのでは? と思われる方も少なくないのではないでしょうか。2人と違って、橋下氏は反原発で売り出したり、消費税引き上げに消極だったり、必ずしも新自由主義政策に忠実というわけでもないように見えるからです。石原・小泉両氏もいわれたことはありますが、橋下氏が特段「ポピュリスト」呼ばわりされ、保守の論壇からは「橋下は保守ではない」と政策のいい加減さを糾弾されるのは、橋下氏のこうした政策のためです。
しかし、じつはこの点でも橋下氏の「師匠」はいるのです。小沢一郎氏です。小沢氏は、1993年『日本改造計画』でいち早く新自由主義改革を訴え、消費税10%への引き上げを主張したにもかかわらず、民主党代表となった07年マニフェストでは、消費税は逆進的であるとして引き上げ凍結を掲げ、野田政権の現在でも党内で消費税引き上げ反対派の親分となっています。
小沢氏のねらいは、個々の新自由主義政策そのものではなく、新自由主義政策を強力に遂行できる強力な政治体制、つまり、保守二大政党体制づくりのためにあるといえます。だから、消費税引き上げについての180度転換のような変節も、保守二大政党の片われである民主党を選挙で勝たせるためには何のやましさもないのです。橋下氏のパフォーマンスにも、それがあるのは明らかです。橋下氏が全国政治でやりたいことは、「維新八策」から見るかぎり、新自由主義の個々の政策というより、改革を推進する強い決断の政治のように見うけられます。「維新八策」の改憲案に9条改憲が入っていないことを右から論難された橋下氏が答えたのは、こうでした。「維新の会の政治哲学は決定できるシステム論⇒憲法96条の改正がないかぎり、どんな憲法改正案を論じても絵に描いた餅⇒まずは決定できる仕組みをつくってから、その後実体的な憲法改正案の議論をする」。今必要なのは「決定できる政治」、つまり、新自由主義改革強行体制づくりだ、菅政権も野田政権もできないが、オレならやってみせるというのが橋下氏の考えなのです。ですから、権力をつかむためには府民の強い支持が不可欠となれば、少々財界が困ろうが反原発の旗を高く掲げる。しかし全国政治に打って出るとなれば、原発反対のままではすみません。自分は、全国政治にも責任をもてるというメッセージが、大飯原発再稼働容認という変節に現れたのです。
橋下氏がモデルにした石原・小泉・小沢という3人の政治家は、対照的といってよいほどの性格の違いがあるにもかかわらず、共通している点があります。それは、3人ともに―それに当の橋下氏も加え―確信をもった新自由主義者だという点です。

 では、橋下氏のもっている「新鮮さ」とは何か? それは、彼が真似した政治家たちとの時代の相違からくるどぎつさにあります。諸先達と異なり、橋下氏が課題としているのは、新自由主義改革強行の結果、その矛盾が爆発し、一時停止を余儀なくされた新自由主義の再起動です。新自由主義の矛盾に対して起きた反貧困運動などの力によって政権交代がなされた。その後民主党政権を新自由主義に回帰させはしたものの、消費税引き上げもTPPも原発再稼働もなかなかすすまない。こうしたことに苛立つ支配階級の要望に応えて登場しようとしているのが橋下氏です。
橋下氏が相手にしているのは、新自由主義の痛みを身をもって経験した人々です。もともと新自由主義の政治は、福祉国家の政治とも企業社会の政治とも違って再分配の政治を切り捨てていますから、統合力も弱いしその幅もせまい。したがって統合のやり方は不安定なものにならざるをえないのですが、後期新自由主義の段階ではそれが昂進せざるをえません。橋下氏は、こうした後期新自由主義の政治家の申し子のような人格をもっています。
橋下氏は、本能的に新自由主義の2つの手法を駆使しています。ここに彼の新鮮さもあるのです。1つはねたみの組織化による分断の政治です。新自由主義は、その被害者を相互に対立させることで矛盾の爆発を抑えようとしますが、橋下氏はこの「天才」です。非正規労働者から正規労働者を、民間労働者から公務労働者を、現役の若者から高齢者を、ワーキングプア層から生活保護受給者を、消費者から生産者をというかたちで、前者の立場から後者を攻撃し分断する。もう1つは、国民投票型権威主義とでもいうべき手法です。「参加による同意」の調達です。選挙で勝って「白紙委任」を取り付けたとして新自由主義を強行するやり方です。
この2つの手法を天性身につけて、橋下氏はいま全国政治に打って出ようとしています。野田政権のもと、一歩もすすまない新自由主義にあせる支配階級も、危険を承知で橋下氏にかけてみようかという気持ちに傾いています。ちょうどあの小泉氏が出てきたときとよく似ています。ただし、マルクスもいうように、1度目は悲劇として、2度目は茶番として――。

クレスコ編集委員会・全日本教職員組合編集
月刊『クレスコ』7月号より転載(大月書店発行)

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