死んでたまるか8 3年が経過して 垣田 さち子(西陣) 占領下の京都で  PDF

 1945年にポツダム宣言を受け入れ無条件降伏した日本だが、生活状況はなかなか改善しなかった。より厳しい困難に直面することになった。闇市が横行し、生きるために食べ物を獲得する戦いが続いた。著名な哲学者が、真面目に闇市を利用せず栄養失調で亡くなる例などもあり、生きるのに皆必死だった。
 今宮神社の鳥居近くの2階を借りて始まった両親の新婚生活も程なく建勲神社参道に面した一軒家に引っ越した。裏を開けると西陣織の織機の音が高く響いていた。
 父は近江八幡病院に単身赴任したが、週の何日かの夜をこの家で診療した。夜遅く10時、12時まで患者さんを診ていた。外科医だったのでけがをした患者さんも多かった。
 出入りの激しい家だった。茶の間には、知らない人が寛いだりしていた。テレビが来た日には近所のおっちゃんたちが集まり、プロレスなどを見ていた。
 戦友が訪ねて来られることも多かった。生死を賭けての仲間だったのだから、再会は一入だっただろう。お酒が入り、歌が出て、踊りが飛び出し楽しそうだったが、どこか切羽詰まった真剣さがあり、子どもの出る幕はなかった。
 医大の同級生たちもよく来られた。こちらは情報交換や打ち合わせなど難しそうな様子だった。大概お酒の席になり、嬉しそうな雰囲気に移行したけれど。中国残留孤児の当事者で名乗り出ようかどうかと深刻な相談もあり、医大在籍中にさる神社のお嬢さんとの間にできた子どもをどうするか、など困りごとはいっぱいあった。当時は幼児だった私に父が語ったはずもなく、どの時点で理解できたのかわからないが、今から思えば父はよくいろいろ話をしてくれたものだ。
 確かに世の中は騒然としていた。進駐軍のジープが通りに止まっていたのを覚えている。大きな消しゴムくらいのずっしり重たいピンクのチューインガムは忘れられない。アメリカ兵にもらった記憶はない。母が買ってくれたのか。
 小さな飛行機からビラが撒かれ、よく晴れた空からキラキラと落ちてくるのがきれいで、子どもたちが喜んで追いかけて集めた枚数を競って遊んだ。
 父も母も精一杯働いた。不穏な世情の中、医者の出番は多かった。刑事事件も自殺も多かったのではないか。お座敷には揮毫の「鬼手仏心」の額がかかっていたし、診察室には馬術部選手の父が障害を跳んでいる人馬一体の美しい写真が飾られていた。

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