死んでたまるか5 3年が経過して 垣田 さち子(西陣)  PDF

町医者のエコな暮らし

 父が生まれたのは大正元年である。その時、祖父は医師としてどこでどういう生活をしていたのか、聞きたいことは一杯あるのに、尋ねる相手が何処にもいない。確か岡山の小学校での話を聞いたことがあるので、岡山在住の時期もあったのだろう。伊賀上野鉄砲町に居を定めたのは大正半ばぐらいではないか。大きくはなかったが、しっかりした門構えの家だった。
 門扉から入ると時代劇の武家屋敷の玄関のようになっていて表の間があった。開かずの間で薬瓶の並んだ棚などがあった。眼科医だった祖父の診察室だったのか。
 重いガラスの違い戸があり茶の間になっていた。常には門のくぐり戸から出入りして、庭を通り勝手口(玄関)から入ると広い三和土があり、茶の間があった。
 祖父母の居室は蔵の1階で、茶の間の次に座敷があり、座敷の外は中庭で大きな石がいくつも置いてあり低木が多く植えられていた。
 広い三和土は台所に続き庭に出られるようになっていた。庭は植え込みで仕切られ、台所側は井戸と流し、風呂の焚き口があった。
 中庭の奥には離れがあり、物置と二つの部屋と五右衛門風呂があった。奥の部屋には祖母の機織り機があり物置には薬瓶の棚があり、前の机には天秤やビーカーが並んでいた。半分は農作業具がいろいろあり、雑然とした中に活気のある場所だった。
 対面の戸の外は畑だった。畝が造ってあって、ネギ、青菜など家で食べる野菜が育っていた。そして畑の向こうは竹薮になっていた。表から奥の竹薮まで、敷地は結構大きなものだった。屋敷は祖父が設計した。
 祖父がお金持ちだったはずがない。上野近郊の農家の出身で長男ではなかった。医師になったとしてもどこでどういう働き方をしていたのか。ドイツ留学が決まっていたのに身体を壊して駄目になり、和歌山、岡山に転地療養していたし、収入があってもたいしたことはないはずである。立派な家はどうして手に入ったのか。
 私はよく預けられたので、祖父母、キイ子伯母、ヒデヲちゃんと5人での静かな生活が好きだった。伯母は賢い人で暮らしの知恵を教えてもらって楽しかった。畑のネギが低いものから高いものへと並んで育っているのが不思議だったが、「水も肥料も順番に少しずつ量を増やして与えると育ち方が違ってくる。ネギばっかりそんなに食べられへん」。暑い夏には、たらい、バケツに井戸水を満たし、お陽さんに暖めてもらう。ほとんど炊かなくてもよいぐらい暖かくなった。
 戦後すぐの頃、リタイア医師の穏やかなつましい暮らしがあった。

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