診察室 よもやま話 2 第9回 飯田 泰啓(相楽)  PDF

転倒

 高齢となると筋力の低下は避けられない。そもそも歩行機能の低下から転倒リスクが高い。また年齢とともに骨密度も下がっている。そのため、転倒してしまうと骨折などの重度の障害になってしまう。寝たきりや自立した生活ができない要介護状態の原因の多くは、脳血管障害や認知症であるが、関節疾患や骨折・転倒も大きな割合を占めている。
 数年前まで、高血圧などで通院されていたTさんの娘さんがお見えになった。
 「父が数日前にトイレに行く時に転倒したので、往診してほしいのです」
 「歩けないのですか」
 「腰が痛い、痛いと言って寝込んでしまったのです」
 「だったら、きっと腰椎の圧迫骨折ですよ」
 「救急車を呼ぼうと思ったのですが、先生に診てもらってからと思って」
 「痛い、痛いと言っているのなら、会話はできているのですね」
 「痛そうなのですが、這いながらトイレにも行っています」
 「それなら、今日は時間がないので、明日でも伺います」
 転倒して尻もちでもついたのだろうか。意識はあるし、這っているのなら大腿骨骨折でもなさそうである。Tさんは、すでに90歳代である。圧迫骨折なら救急搬送しなくても、在宅で診ることも可能と思えた。
 翌日に往診して、びっくりである。ベッドで上向きに寝転んだままである。
 「お父ちゃん、先生が来られたので、早く起きや」
 娘さんが必死に寝ているTさんを起こそうと身体をゆするのだが、一向に目を覚ます気配がない。どう考えても意識障害をきたしている。よく観察していると、無呼吸が起こっているではないか。
 「これは、頭の中で何かが起こっているのですよ」
 「だって、今先もお粥を口に入れたら食べたのですよ」
 「こんな状態で本当に食べさせたのですか。のどを詰めたらどうするのですか」
 「今は、よく眠っているので、このままにしておきます」
 娘さんは、大変な状態になっていることが理解できないようである。
 「腰痛だけで、寝ているのとはちょっと違うでしょう。何かおかしいと思ったから、私を呼びに来たのではないのですか」
 「でも、昨日もケアマネさんが来られたけれど、大変な状態だとはおっしゃいませんでした」
 「とにかく、このまま、ほっとくと生命にかかわるかもしれませんよ」
 入院を渋る娘さんを説得して、救急で入院をお願いした。娘さんも、腰椎圧迫骨折かどうかは別にして、腰痛で寝ている状態と違うと思ったから、往診の依頼に来られたのだろう。
 救急外来での頭部CT検査では立派な脳出血であった。転倒して脳出血を起こしたのか、脳出血を起こして転倒したのかは定かではない。しかし、娘さんが来られた時に、腰椎圧迫骨折と決めつけて往診をしなかったらと思うとぞっとする。娘さんが来院された前日にはケアマネジャーが訪れているのだが、異変には気付かなかったらしい。
 この症例を経験して、ふと思ったのは遠隔診療の難しさである。コロナ禍の中で推し進められた遠隔診療であるが、モニターを通して顔を診るだけで本当に診断ができるのであろうか。このような症例は、カメラの前で話をすることもできないから、最初から除外されるのだろう。しかし、ほとんど耳の聞こえないTさんの顔がスマホのカメラで写され、それが診察室のパソコンのモニター画面に映る。そして、耳の聞こえないTさんに代わって娘さんが横から応答する。遠隔診療ではTさんの意識がないことにさえ気付かなかったのではと思った。
 些細なことだが、対面診療ならば、ちょっとした顔色や歩き方に接し、聴診や触診をして肌で感じることができる。それさえできない状態の遠隔診療で、本当に診察できるのだろうか。自信がなくなってしまった。

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