私のすすめるBOOK  PDF

京都大学名誉教授
京都保健会社会健康医学福祉研究所所長
小泉 昭夫

世界を「解釈する」のではなく「変革する」

 本書は、2021年度の新書大賞を獲得したベストセラーである。的を射た書評は巷にあふれているが、碩学による書評は整いすぎている。しかし、多くの70年代初頭に学生時代を送った世代は、「資本論」を、「共産党宣言」「空想から科学へ」、レーニンの「帝国主義論」や「国家と革命」、トロツキーの「ロシア革命史」など一連のものとして理解してきたため、「資本論」に限定した巷の書評には、不満を感じるであろう。不遜にも小生が敢えて拙稿を書くのも不満が理由である。本書は、巷の評価通り、やはり世界を「解釈する」のではなく、「変革する」(フォイエルバッハ論)ことを示す良書である。
 本書の内容は、やはりレーニンを意識してマルクス主義の三つの源泉に基づいて書かれている(表1)。論考は、現状分析、経済理論、運動論、哲学からなる。現状分析では、気候の激変が人類の危機である点を指摘している。そこで、ヒトの経済活動による環境変動で特徴づけられる地質学的年代として提案されている「人新世」を標題にとりこんでいる。経済理論に関しては、資本論を執筆して以降の晩年の種々の手紙などの文献にも丁寧に目配りし、それらを基に、資本主義そのものが必然的に環境からの略奪および収奪を伴うことを、マルクスの晩年のエコロジー理論で明らかにしている。運動論に関しては、階級闘争に代わり「南北」の「市民」(特にエッセンシャルワーカーなど)による「ボトムアップ」による地方自治での政策立案を運動の基礎に置く、地方自治から発信するミュニシパリズム(Municipalism)を提言。古典的マルクス主義者なら、レーニンが非難したローザ・ルクセンブルグの革命組織内での民主化理論を思い浮かべるであろう。
 さらに言えば、著者の提案はアナーキズム(野蛮)の香りのするリバタリアンミュニシパリズムの主張に近く、その香りを消すため、コミュニティーの規範の重視というコミュニタリアンの理念も注意深く取り込んでいる。
 要するに、小生の独断と偏見を許していただけるなら、著者の意図にかかわらず、本書の運動論は、米国の20世紀後半の米国リベラリズムに理論的に大きく依拠していると思われる。次に、哲学である。驚愕すべきことに史的唯物論を排除している。確かに、ヘーゲルの「精神現象学」の史的弁証法は、東洋の歴史を「停滞した世界」と描き、差別的。その理論に代わり「気候正義論」を導入。ここでも世代間格差を不公平と主張する20世紀米国リベラリズムの祖であるロールズの「正義論」の影響を感じる。
 以上本書は、20世紀後半の米国リベラルの視点で「資本論」を読み直したものであるとの思いを持ってしまう。したがって、古典派マルクス主義者は、曲学阿世の徒による「換骨奪胎」論と非難する可能性も大いにあろう。
 しかし、予想される古典派マルクス主義からの批判はあまりに矮小化に過ぎる。本書は、資本主義そのものが成長を前提とし、環境破壊を必然としている点を、丁寧に説明している。その結果、マルクスの「資本論」の真の価値は、「気候正義」を実現するための合理的根拠となる経済理論であると、読者に非常に強く訴えかけることに成功している。この主張こそ、地球温暖化を危惧する多くの人々が、本書に強く引きつけられる理由であろう。
 最後に、本書の理論を敷衍すれば、医療は、改めてその使用価値に注目すべきであることに気付く。保険医協会は、医療格差を生む市場原理への警戒を持つべきであり、地方自治体レベルの医療政策の立案に、広く市民と連帯して関わることが期待される。

表 1 本書の論旨骨格

マルクス主義の3つの源泉
古典派
斎藤理論:後期マルクス派

経済理論
剰余価値学説
剰余価値学説+マルクスのエコロジー理論+均衡理論
使用価値と交換価値の乖離に注目し、希少性を生むことこそ資本主義の本質であり、環境の略奪と収奪をともなう。
運動論
階級闘争=>世界の階級闘争の中心インターナショナルの設立
「南北」の格差を梃に、地球の市民によるボトムアップで世界のいたるところでの地方自治での政策立案。ミュニシパリズム(Municipalism)で世界規模で連帯
地方自治の政策を国際化への主張は、リバタリアンミュニシパリズムに近く、コミュニティーの規範を求めるところはコミュニタリアンに近い。
哲学
史的唯物論:ヘーゲルの弁証法では、アジア社会は停滞の歴史で差別の対象。
気候正義論:史的唯物論を排除することで、発展を捨て、脱成長を主張。理論に潜む差別も同時に排除。代わって、搾取の対象を環境まで広げることでグローバルな規範の導入を提言。
「地球温暖化」を人類滅亡の危機であるとして、現世代と後の世代との利害の対立を解決するための、「環境正義論」に基づく規範を提案。

『人新世の「資本論」』
斎藤 幸平 著
集英社 2020年 9 月17日発行
1,122円(税込)

ページの先頭へ