医師が選んだ医事紛争事例 131  PDF

正中神経損傷かどうかの診断は極めて慎重に

(30歳代前半女性)
〈事故の概要と経過〉
 患者は本件医療機関に勤務する医師で、職場での職員健診を受けた。看護師は肘窩部上方10㎝のところを駆血帯で縛り、目視と指触で肘窩部中央に肘正中皮静脈を確認した。採血針ホルダーに21G針を着け、約20°の角度で約0・5㎝針先を刺入し、その際痛みの有無を尋ね、患者から訴えがないことを確認した。採血は円滑に終了したが、患者から「抜針後に痛かった」との訴えがあった。患者は採血の翌日から左拇指から中指にかけ痺れが出現したと訴え、翌々日に冷感が発症したとのことで、A医療機関整形外科を受診。「注射時左正中神経損傷」と診断された。患者には事故後の医療費等に関して労災が適用された。また、複数の医療機関にわたって診察を受けていたが、神経損傷はいずれにおいても認められた。なお、看護師は、看護師賠償責任保険に未加入であった。
 患者は、後遺障害第5級6号「1上肢の用を全廃したもの」が遺残したとして、訴訟を申し立てた。
 医療機関側としては、採血は適切に施行したとして医療過誤を否定した。ただし、医療費免除や道義的謝罪は行った。なお、患者の主張する後遺障害に関しては、複数の医療機関の診断書はあるが、5級が適切な状態であるか否か、確認が取れなかった。
 紛争発生から解決まで約3年3カ月間要した。
〈問題点〉
 看護師の話を聞く限り、採血の適応や手技に問題は認められなかった。さらに、患者側は裁判においても、後遺障害等級を確認するための再度の診察を拒み、実際の後遺症の状態が不明のままであった。最終的には、当初の「注射時左正中神経損傷」の診断を裁判所が認定して、和解勧告をすることとなったが、医学的な調査が十分になされなかった点が問題として挙げられる。一般的に言って、肘窩中央部の穿刺では、『標準採血法ガイドラインGP4-A3』(特定非営利活動法人日本臨床検査標準協議会、19年3月発行)によれば、採血穿刺時に正中神経損傷が発生すれば感覚障害に加えて運動障害を生じるなど重症となる可能性があり、特に注意が必要との記述がある。したがって正中神経損傷の診断は極めて慎重にしないと、裁判所も正中神経損傷との結果から過失を認める傾向が大きく、裁判で高額な支払いを命じられることになる。客観的証拠がないような場合においても、正中神経損傷と診断されれば、医療機関側がいかに手技上の過誤がないと主張しても、受け入れられない傾向が強い。正中神経損傷の診断をするときには、今後とも患者の主訴のみならず、客観的な医学的判断が必要である。また、当該医療機関は、医療過誤を最後まで否定したが、敗訴判決となればマスコミ等にも報道されることも必至となり医療機関の経営に影響することを危惧して、不本意ながら高額和解に応じる決心をした。医療機関側弁護士も、医療機関側の意向があり、十分に争えなかった経緯が窺えた。
〈結果〉
 医療機関側は、和解勧告に応じて和解した。なお、和解額は訴額の4割程度であったが、患者が高額所得者であったことから、和解額は注射事故としては極めて高額となった。

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