鈍考急考 14 自助の強調はSOSを妨げる 原 昌平 (ジャーナリスト)  PDF

 思った以上にスカスカじゃないか。理念は語らず、説明能力も答弁能力も乏しい。法律をわかっていない。
 携帯料金、不妊治療など個別政策は打ち出すけれど、緊急最大の課題であるコロナには無策で、危機管理ができていない。経済、社会保障の基本方針もはっきりしない。
 その菅氏が自民党総裁選、国会の所信表明演説で繰り返した理念らしき言葉は「自助、共助、公助」。本人がどこまで意味を理解して口にしているのかは不明だが、自身の感覚には合っているのだろう。
 このフレーズは1990年代から防災の分野で使われるようになった。自助、共助、公助のどれもが必要だという並列的な位置づけだった。
 ところが、やがて社会保障の分野に持ち込まれ、まずは自助、次に共助(社会保険)、最後に公助という順序を強調するトーンになった。途中に互助(親族や住民の助け合い)をはさむこともある。
 なかなか巧妙な言い回しで、多くの人は「まあ、そうだ」と受け止める。自己責任論、新自由主義でけしからんと言うのはたやすいが、内容に踏み込んで論理的に批判するのは、そう簡単ではない。
 公衆衛生、災害、教育、交通、環境などは公的取り組みが肝心だ。障害、病気、ひとり親をはじめ、不利な条件にある人は、公助や共助がなければ自助も発揮しにくい。
 とはいえ「自助、共助、公助」は、すべて自助でやれと言っているわけでも、公助を否定しているわけでもないから、かわされてしまう。
 公助の代表格である生活保護制度には「補足性の原理」があり、自助、共助を先に求める。働く能力や資産を活用しなさい、親族の援助や社会保障給付があれば使いなさい、それでも足りなければ、足りない分だけ保護費を出しましょうという順序である。
 自助を最初に挙げることの最大の問題は、論理構成というより、人々の心理へのメッセージだと筆者は考える。
 困っている人が、助けを求めにくくなるのだ。
 そもそも自助と言われても、どこまでの努力をするべきか、あいまいだ。心身をすり減らし、蓄えも底をつく段階まで求められるのか。
 自助が強調されると、助けを求めることを遠慮し、制度の利用にひけ目を感じる人が増える。近年は他人に対して努力が足りないと責める風潮が強いので、なおさらだ。
 しかも困っている人ほど、利用できる制度の知識や人とのつながりが乏しく、意欲・気力も低下している。
 「助けて」と言えない人々こそ、社会保障や福祉の現場では、大きな課題なのだ。
 貧困、介護負担、虐待、DV、孤立死、過労死、自殺……。もう少し早くSOSを出してくれていたら、というケースは枚挙にいとまがない。
 首相が自助を口にすればするほど、悲劇は増える。
 視点を変えて、企業は自助努力だけで競争を勝ち抜いているのか。実際には補助金、助成金、公的融資、税優遇のしくみがたくさんある。
 そして年間300億円を超す政党助成金。自助を唱える政党・政治家は、先にそちらを返還・廃止しなさいよ。

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