診察室 よもやま話 第20回 飯田 泰啓(相楽) 神様の贈り物  PDF

 日常の診療をしていると、誰もが認知症になるのかと錯覚する。認知症は死の恐怖から解き放つための神様の贈り物との見方もある。
 Yさんもそのような一人である。
 肺気腫のある方で、風邪をすぐにこじらせてしまう。
 「今日は、どうされましたか」
 「………」
 きょろきょろと娘さんを見ているだけである。
 「昨日から咳と熱があり、食事も少なくなっています」
 Yさんは、だまっているが、元気のない様子である。
 38℃以上も熱があるのに、どうして知らぬ顔をしていられるのか不思議である。
 それから、半年ほどして娘さんが診療所に来られた。
 「父が入院しているのですが、もうすぐ退院なので往診してほしいのです」
 「どうなさったのですか」
 「実は、白血病になったのです。抗がん剤で、うまくいっていると病院の先生はおっしゃって下さるのです。しかし注射器をみると暴れ出し、殺されると大騒ぎするため治療ができないのです」
 「順調だったので悔しいですが、何も治療しないのなら、退院された方がいいと先生もおっしゃって。退院を決めてきたのです」
 確かに、Yさんを説得して化学療法をすることは至難の業と思える。入院や点滴で縛られるのには耐えられまい。
 往診を引き受けたものの、そのうち状態が悪くなることは目に見えている。貧血はひどく、血小板も2・9万しかない。すぐ肺炎や転んで頭蓋内出血を起こしそうである。この状態では24時間体制での見守りが必要である。
 退院後、早速、往診に伺った。長い間の工夫が見て取れる。各部屋のドアにはトイレ、ふろなどと大きな文字で張り紙がしてある。Yさんの部屋の扉は開けるとチャイムが鳴るようになっている。Yさんは布団に横になったままで、テレビのアニメをみている。
 「こんにちは」
 「いや、たいへんですよ。これは、おおごとです。おおきいやつが出てきました」
 どうも、アニメに熱中している様子である。
 「これはちょっとやそこらの問題ではありません」
 真剣に悩んでいる様子である。
 「アニメをみているとおとなしいのですが。昨日も興奮して急に立ちあがって、転倒しかけたのです」
 いつものように訪問看護の協力を得ることにした。看護師さんのアイデアで転倒しても怪我しないように、マットレスで柱を覆った。起きあがりにくいように布団で介護することとなった。
 初めのうちは、Yさんは布団で横になっていることが多かったが、一カ月ほどすると座敷の机に座っておられるようになった。血液疾患では採血が必要である。しばらくYさんと娘さんを交えて世間話をして落ち着いた頃に注射器を取り出すようにした。
 「おじいちゃんは衛生ボーロがすきなのです」
 娘さんが衛生ボーロの袋を開けると、取り出して、テーブルの上にもくもくと並べている。
 「すごいですね。大きいのを作りましょう」
 思わず一緒に遊んでしまう。
 「さあ、そろそろメインイベントにしましょうか」
 娘さんが、笑っている。
 「右腕を出して下さい」
 「いいですよ」
 どうも採血されることは分かっているようである。
 「チクッとしますよ」
 「いたたった、た」
 必死に腕を動かそうとするのを、押えつけての採血である。
 「Yさん、ほら、みてみて。おおきなハチが飛んで行きましたよ」
 誰がだまされるものかというYさんの顔つきである。
 往診に行くたびに、こんなことの繰り返しであった。一月ほどして、徐々に白血球数は上昇をはじめ23万まで確認した。その後は採血もできないままで家族に見守られながら息を引き取られた。Yさんが治療を受けられず亡くなったことは不幸だが、アルツハイマー病のYさんにとって、白血病は神様のもう一つの贈り物ではなかったのかと考えながら最期を看取った。

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