★私の医療実践 過疎地・花背での医療を振り返って 吉澤 泰介(左京)  PDF

 還暦前に縁あって、約20年間京都市の北のはずれ、過疎地花背で診療にあたられていた髙橋康廣先生(京都南病院)の診療所の医師になりましたが、今年で終了することとなり、これまでの医療を振り返ってみました。
 冬はひどい時は2m近くまで雪が積もることがあり、一昨年の未曽有の台風被害は特に悲惨でした。京都中で一番最後までライフラインの回復が遅れ、じっと耐え忍ぶことに慣れているお年寄りたちも、さすがに限界寸前でした。
 一言で花背といっても主に三つの地区(別所、花背、広河原)に分かれていて、町に一番近い花背峠を越えてすぐの村、別所は源氏の流れを汲み、公家が住みついたところで、奥の広河原は太古から周山地区の経済圏に属し、わずか40㎞圏内なのに住民の気質が驚くほど異なっていました。ただ、ともに男たちが切った杉の大木を薪に変え、女たちが背中に背負って、夜明け前に村を立ち、何時間も急峻な山道を、花背峠を越えて麓の鞍馬まで、冬は腰まで雪をかき分けながら歩き通すのが日常でした。それが、昭和の半ば頃に安価な外材が入ってきたため、林業だけで生活できなくなりました。今や日本中、田舎はどこもほぼ同じ傾向らしいのですが、産業がないため若者が住めず、人口は減るばかりです。
 診ていた患者さんのほとんどは、平均85歳以上のご老人たちであり、この10年間で4分の1くらいが亡くなりました。町の人と同じ医療保険料を支払っているのに、とことん悪くなるまで受診を控え、自力で治そうとする傾向がありました。「24時間いつでも電話してくれたらいいよ」と言っていたのが、地域の方の安心感に一番繋がったのではないかと思われました。
 こんな心震わす人々との楽しい交流があったからこそ、続けられました。物はなかったが心豊かだった昭和の無医村は田舎でしたが、今や当地のお年寄りたちは皆助け合って笑顔で生活しています。一方、現代の無医村は心の飢餓に苦しんでいる物と言葉があふれた都会にあり、自分たちが今、快適に暮らせているのは先人たちの血の滲むような努力の上に成り立っているんだということへの感謝の念の忘却こそが、自戒をこめて一番の現代人の問題だと思われます。振り返れば、先般惜しくも亡くなられた、アフガン復興にご尽力された故中村哲先生と同じ無私の心で通われた、「医者は、患者さんの生活を見なければ診られない」と教えて下さった、私の心の師のおひとりでもある、21世紀の日本の訪問医療の夜明けを作られた堀川病院の故早川一光先生のお言葉を自分なりに咀嚼、実践できたかなと思えた、この10年でした。

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