特集 地域紹介シリーズ21 上京東部 医療と信仰の縁<えにし>  PDF

 協会は、地域紹介シリーズ第21弾の「上京東部」座談会を10月11日に協会会議室で開催。出席者は上京東部医師会より菅野達也氏、飯田明男氏、小林雅夫氏、小川欽治氏で、上東の地域医療について語っていただいた。また、ゲストとして御霊神社宮司の小栗栖元徳氏を招き、御霊神社の歴史についてきいた。進行は、協会の福山正紀副理事長。

第1部
御霊神社の歴史と暮らしに息づく信仰

 小栗栖 本日はお招きいただき光栄に存ずる次第です。
 御霊神社の歴史を遡っていきますと、神社の創立は平安遷都と時を同じくしています。すなわち794年、桓武天皇の勅願によって創建、創祀されました。以後、1200年以上が経過していることになります。

早良親王のたたりを鎮める
 御霊神社には八柱の神様が祀られています。その中心が早良親王です。桓武天皇の実の弟君です。当時の兄弟は、父親が同じでも母親が違うというケースが普通だったのですが、早良親王は同母弟です。桓武天皇の皇太子でもありました。
 ところが785年、謀反(藤原種継暗殺事件)に関与したという嫌疑をかけられました。早良親王は桓武天皇の怒りを買い、罪に処せられて、これがもとで亡くなってしまいます。その後、早良親王は無実だった、早良親王こそが謀略により罪を着せられたということになり、世の同情を買うことになります。また当時いろいろな天変地異、悪疫の流行、皇太子の罹病など不吉なことが連続したのは、早良親王の怒り、たたりだと言われるようになります。それで早良親王を弔う、御霊を鎮めるという行事が国家の命令、勅命によって出雲寺の上出雲御霊堂という名称で呼ばれていたところで行われました。それが御霊神社の始まりです。怒りをお慰めするというのが御霊信仰なんですが、その代表的な神社が上御霊神社、下御霊神社です。
 平安京、あるいは平安京以前に遡る頃の話です。このあたりにはいつの時代か島根県の出雲から近畿へ移ってきた人たちが住んでいた地域がありました。それを出雲郷と呼んでいます。今も京都には出雲路、出雲路橋という名前で残っていますね。その地に移ってきた人たちが祀ったお寺が出雲寺です。寺は上御霊神社の境内付近にあったとされ、それが御霊神社の前身であると言われています。したがって御霊神社の歴史は、白鳳時代(飛鳥時代と奈良時代との中間)、あるいは飛鳥時代の後期にまで遡ることができます。
 下御霊神社は、もともとは上御霊神社のすぐ南側にありました。現在は寺町丸太町を下がったところに移っています。上御霊、下御霊神社は近接していました。上御霊は上出雲寺の鎮守、下御霊は下出雲寺の鎮守と言われることもあります。

応仁の乱では前線基地に
 御霊神社に関わる大きな歴史上の事件としまして、応仁の乱があります。これは1467年から11年間にわたって京都を中心に行われた大規模な戦乱で、将軍家などの相続問題に端を発したものです。御霊信仰とは関係ない出来事ですが、戦乱の発端の場所になったのが御霊神社なのです。一昨年(2017年)が事件勃発から550年となる記念の年で、「応仁の乱発端の地」という碑を建立し、元総理大臣の細川護煕さんに揮毫していただきました。細川さんは、応仁の乱の東軍の側の大将だった細川勝元の子孫です。
 応仁の乱では、御霊神社自体に東の陣が置かれました。発端となる戦いで、畠山政長が御霊の森に陣を敷き、ここから合戦が始まりました。一方、西の陣は堀川通より西側に置かれ、今でも西陣という地名で残っています。戦乱は東軍が退却することで終わりますが、西陣と違って東の陣という地名は残っていません。東西両陣の境目は小川通あたりです。不思議なことに御霊神社の氏子と今宮神社の氏子との境になっています。
 応仁の乱で京都の町は丸焼けになったとよく言われます。実際御霊神社も最初の戦闘で境内はほとんどが焼失してしまいました。以後は当然のことですが、お祭りなどはとてもできる状態ではなくなったようです。復活するまでおよそ30年かかったと言われています。応仁の乱は11年間で終わりますが、神社の方は戦乱終結後20年近く復興がなされなかったわけです。それほどひどいダメージを受けたということです。被害を受けたのは御霊神社だけでなく、たとえば祇園祭も下京一帯が被害を受けたため祭りなどを長く行うことができませんでした。

京都御所も氏子内
 応仁の乱の後、京都の町はずいぶん変わりました。戦乱中は、天皇さま、上皇さまは戦火を避けるためお住まいを移動されていました。お公家さんのお屋敷に疎開されていたのです。そういったお屋敷があったところが現在の御所なんです。平安京の頃、内裏は現在の御所よりもっと西側にありました。今の大宮通が平安京内裏の東端だったようです。千本通が真ん中くらい、西の端が御前通くらいのところにありました。「源氏物語」や「平家物語」を読むと、現在の御所がある辺りに関白などの公家が住んでおり、御所車で一条通を内裏へ向かうため通っていたことが書かれてあります。
 応仁の乱の戦後、天皇さま、上皇さまは疎開していた今の御所がある場所に定着されます。土御門内裏が今の下長者町通あたりにありました。以後、元の平安京の方は廃れてしまいました。
 上御霊神社、下御霊神社の氏子の地域に御所も含まれることになります。今の御所の真ん中あたりに出水通という東西の通りがありますが、その通りを境に北側が上御霊、南側が下御霊の氏子区域です。天皇さまは、今の紫宸殿などがあるところにお住まいだったので、上御霊の氏子区域。上皇さまのお住まいは、今でいう仙洞御所でしたので下御霊の氏子区域ということになります。しかし、明治維新になると、天皇さまは東京に行かれてしまい、現在に至っています。

地域の氏神様
 もともとは御霊信仰が御霊神社の始まりでしたが、それが今日、地域の氏神様として崇敬を受けている面もあります。早良親王をはじめとする御祭神の御霊を鎮める神社ではあるのですが、ふだんは、一般の氏子の方がお見えになられ、お宮参りとか結婚式をされます。
 最後に、私からみなさんにお聞きしたいことがあります。神社や神道に対して何を求めておられるのでしょうか。何にも求めていないという方もおられるかもしれません(笑)。現代の医学はどんどん進歩してすばらしい成果を上げています。みなさんはその先端でお仕事をされておられます。言わば私たちとはある意味対照的な立場にあります。そういう意味で、先生方の神社に対するお気持ちをお聞かせいただけませんか(笑)。
◇   ◇
 福山 ありがとうございました。古い神社だと思ってはいたのですが(笑)、794年、あるいは前身はそれ以前からあったということで、日本の歴史そのものの神社という感じがしました。京都は日本の歴史の礎を作っている土地だと思いますが、その中でも最も古い神社のひとつということで、認識を新たにしたところです。私自身、御霊神社の氏子の一人でして、孫のお宮参り、七五三などでお世話になっています。生活の中の一部になっていると思っています。
 小川 私も子どもたちの生後ひと月のお宮参り、七五三でお世話になりました。その他、年始のお参りでもうかがいます。しかし、それ以上のことはあまり考えたことがないんです(笑)。その程度の認識くらいしかなくて、申し訳ありません。
 福山 小林先生はもうお隣といっていいくらいのところにおられますが。
 小林 小さい時分から御霊さんでよく遊んでいましたね。日本人は神社を含めていろんな神さんを敬います。この時はこの神さん、七五三の時は近くの御霊さん、あるいは何か困りごとがあると自宅の神棚に願いごとをする。それは日本人の一番いいところじゃないかなあと思います。
 菅野 私も神社へはお宮参りや初詣に行かしてもらう程度です。ただ私は医師になってからも京都府内から出たことがないので、神社やお寺さんが身近にあるのが普通になっています。しかし、関東に行くとお寺のすぐ横に大きなマンションが建っているところも多くあります。寺社のあるところは神様が住まわれている聖域で、そんな寺社があってこそ京都、特に上京区ならではの魅力を出し続けているということを宮司さんのお話を聞いて改めて感じました。
 飯田 私の出身は兵庫県です。先祖は大阪で手広く商いをしていたらしく、天王寺に大きな地蔵を持っていました。それは今、飯田家の墓といいますか、シンボルみたいなものになっています。昔から祖先を敬えとずっと言われてきました。ですから信仰というより、先祖に対するリスペクトという意味でお寺に行ったりしています。しかし多くの日本人ってそういう形ではなく、イベント的な形での関わりが多いように思いますね。

第2部
地域医療の最後の支え手という自負

 福山 ここからは上京東部を中心とした地域医療をテーマにお話をおききします。まず、上京東部医師会の歴史を、この中で一番の年長者からおうかがいしたいと思います。小川先生、お話しいただけませんか。

地域の歴史と特徴
 小川 私は開業をして33年になります。先代の父が開業をしたのが1938年、当時は丸太町通より北には開業医は3件しかなく、非常に広い診療圏を診なければならない時代だったようです。戦争ですべてのものが壊され、そして戦後の大混乱の時代を経て、1961年には世界に自慢できる皆保険制度が始まっています。
 私が開業した1986年は老人医療費がまだ定額負担のころですね。最初は月200円。それがやがて400円になり、800円になっていったことを覚えています。ただし、月初めにそれだけ支払えば、高齢者の自己負担はありません。当時は医療費の患者負担の面ではまだまだ幸せな時代でした。
 上京東部医師会の一員として私が会長をしていた2000年代前半には、地区医師会でさまざまな問題が提起されていました。02~03年は地区医師会法人化の是非が取り沙汰されており、会員へのアンケート調査や役員会での協議の結果、当医師会は法人化せずに、いわゆる仲良しクラブとして活動することとなりました。04年には老人保健事業促進を目的に「生活習慣を考える会」を立ち上げ、これがその後の各種学術研鑽事業や介護認知症関連事業へと繋がっていきました。上京東部医師会の市民検診事業は、当初から京都地域医療学際研究所に委託していたのですが、その是非につきかねてから議論の多いところでした。06年度からは委託を取りやめ、上東独自の検診事業として活動することとなり、現在に至っています。
 地区医師会の話から少し離れますが、開業した86年当時、私が診療を担当した患者さんの中には90歳以上の方は2人しかおられませんでした。ところが、今は90歳以上の患者さんがいっぱいおられます。しかもお元気な方が多い。当時との違いとして、患者さんが非常に高齢化していることがあげられると思います。
 同時に高齢者世帯が増えたことも大きな変化の一つです。高齢者のみの世帯が増え、家族構成が変わってきています。一方、患者さんの病状を家族の方に説明するためにお呼びしても、30年、40年前ですと、長男のお嫁さんが来られることが多かった。今はお嫁さんが来られることはなく、子どもさんが来られることが多いですね。あるいは、子どもさんにお話しする以前の段階で、施設に入れられることが増えてきています。そのような時代になっています。
 こういう中で患者さんは、どう変わってきているのか。先生方も感じておられると思いますが、ご自分で勉強して、自らの病気についてある程度診断をつけて来られる方がおられます。これはある面で結構なことなんですが、しかし一方で情報過多の中で整理しきれていない状況に陥っている人もおられます。それを整理するのもわれわれの仕事かなと感じています。
 他方、高齢者の中にはいまだに自分のことは先生に全部まかせます、命を預けますという方もおられます。
 菅野 上京東部医師会の設立は47年11月と聞いております。もちろん私が生まれる前のことです。東部というのは上京区の堀川通を境に東側、西側に分けて、東側の地域です。西側は上京西部医師会という名称ではなく西陣医師会という、西陣という地名をそのまま残しています。
 先ほどの宮司さんのお話にありました御所も、上京東部医師会のエリアに入っています。医師会に入会している開業医は、約40人です。それ以外には病院勤務の医師にも医師会に所属していただいています。上京東部医師会のエリアの中には、京都第二赤十字病院、京都鞍馬口医療センター(旧社会保険京都病院)、同仁病院、室町病院などがあります。狭いエリアの中ですが、病院を四つ抱えていることはこの地域の特徴といえます。
 他地区の医師会と比べますと、上京東部は少人数の医師会です。人数の多い医師会では、開業医が200人くらいという大所帯のところもありますが、大所帯になる程、内部で意見の違いとか、意見をまとめようとしてもまとまりにくかったりすることも多少出てくるかと思います。その点、私どもの医師会はコンパクトですから、開業医同士仲がいいと言いますか、たとえば私の父親は生前小川先生に随分とお世話になっていますので、お互い家族構成なども含め全て把握しているような、要するに「上京東部医師会の家族」というような付き合いができています。これはおそらく他地区にはない特徴だと思います。しかし反面、人数が少ないので、地域住民を対象とする事業をしようとすると、人手が足りなくなることがあります。その結果、どうしても特定の先生方に負担がかかってしまいます。これが、この先の課題です。

町そのものを「病院」 に見立て
 福山 最近国は地域包括ケアシステムということで、地区医師会を中心に取り組むことを促しています。この点で、上京東部では現在どのような取り組みが行われているのでしょうか。
 小林 私はその渦中におりまして、できていないことが多いんです。今、菅野会長が言われたように、会員人数は非常に少ない。だから一つの医師会だけで全てのことをやるのは無理だろうということで、上京東部と近隣の北医師会、西陣医師会の3医師会が密に協力することで地域医療、在宅医療の業務を担っていこうとしています。もちろん医師だけでは地域医療はできません。介護関係の専門職、看護師、あるいは歯科医師、薬剤師などとともに、年に数回会議を持ち地域医療をどうするか議論しています。
 福山 飯田先生は内科以外を標榜して開業されています。地域医療で言えば内科のわれわれには見えないご苦労があるんじゃないですか。
 飯田 私がやっているのは泌尿器科、皮フ科です。上京東部には小児科専門医の開業医はいないので全科を網羅していませんが、内科以外では他に外科、耳鼻科、整形、眼科、皮フ科、放射線科、麻酔科、精神神経科などがあります。
 かつてある病院が、町そのものを「病院」としてみていこうという取り組みをしていました。ストリートは「病院」の廊下だと。町のコミュニティーの中で一つひとつの医院が、「病院」の診療科として、町全体をケアしていこうという発想です。
 それにならい、われわれの立ち位置というのは、各診療所をひとつのディビジョンとして考える。あまり大きく抱え込まずにコミュニティーの中で患者さんを包括してみていこうと仕事を進めています。
 幸い地区内には後方支援病院が多くあり、それぞれ立ち位置の違ういろんな病院ですので、そことうまく連携してやっていくという方向性がよいのではないかと考えています。

医療と信仰との交わり
 福山 小栗栖さんは、地域の医療について何かご注文、ご要望はありますか。
 小栗栖 ちょっと見当違いのことになるかもしれませんが、私の関心は、神社、神道的な立場と近代医学とはどういう関係にあるのかという点です。たとえば氏子の中には大きな病院がいくつかあります。お祭りの時にはその前をお神輿が通ります。数年前、ある病院で、お神輿が病院構内まで入って担がれました。氏子の代表と病院側との個人的なつながりから実現したのです。神道というのは、清浄、お祓いしてお清めする、穢れを祓ってしまえば病気も治るという考えが基本にあります。一方、今日の近代的な病院ではいろんな病気を治されている。そういう宗教と医療との接触が現実的に起こっているわけです。これをどう受け止めたらいいのか。
 お神輿には神様が乗っているわけですから、神様のご利益を患者さんもお受けいただいて、少しでも精神的な部分でプラス効果があればいいではないかという見方もできます。現代医療と信仰との接点がどういったポジションを得られるかということを考えています。
 福山 現在、医療の現場に信仰が根ざしていないのは事実ですね。キリスト教系の病院では事情は違うと思いますが、それ以外では病院にお坊さんが来られるとか、ご神職が来られることは、まずありません。日本の中で医療と信仰は、なかなかマッチングしていない。お神輿が病院に入ったということですが、これはある意味画期的なことではないかと思います。厄除けの神様が来て下さったわけですので、患者にとっては大きな心の支えになりうることだと思います。お祭りというものは、心を明るくするものですから、その一つのきっかけになれば悪いことではないと思います。
 飯田 私の知り合いにカトリックの方がおられるんですが、その人が入院したのでお見舞いに行くと、当然のように神父さんがいてお祈りを捧げておられました。その病院にはチャペルがあってそこでお祈りを捧げるというのもごく自然の光景のようです。しかし、海外のように、一つのコミュニティーの中で宗教が当然のごとく存在しているところではいいと思うのですが、日本の場合はどうでしょう。相容れないわけではありませんが、若干違和感を拭えません。ただ、今後はそういった既成概念にはあまりこだわらなくてもよくなっていくのかなあと思います。
 30~40年前のことですが、小栗栖さんがおっしゃられたことと全く同じことが当時私が住んでいた近所でもありました。ある病院の前にお祭りのお神輿が入るかどうかで病院側と地元住民とがもめたのです。妥協案として、病院の敷地内のギリギリのところまで近づくのはいいが、敷地内には入らないでくれということになりました。宗教への概念が今よりずっと硬直していた時代だったと思います。今同じことがあればおそらく違った対応になるのではないかと思いますが、しかし、いまだに硬直した考えの方はおられると思います。
 小栗栖 病院側でなく一般の方の中にも、違和感を持たれる方もおられます。しかし、いいことだと捉える方もおられると思います。いずれにしましても患者さんは神輿を見て喜ばれた。明日の検査は気持ちよく受けられるといった気持ちも持っていただけたようでした。また神輿を担ぐ方も、非常に張り切っていたそうです(笑)。担ぎがいがあると。私自身結論が出ていませんが、皆さんに聞いていただくだけでも貴重な機会をいただいたと思っています。

地域医療、尽きない悩み
 福山 上京東部の地域性を含めた医療の移り変わりを踏まえて、現在地域が抱えている問題、あるいは今後の課題、さらには次世代に伝えたいことなどはありますか。
 小川 先ほどから小さな医師会と言われていますが、これはお互いの顔が見える関係ということでもあります。良きにつけ悪しきにつけ(笑)。開業医同士の連携はとても大事なことです。それをいかに上手に保っていくか。地域の患者さんをサポートしていく上で、絶対必要なことです。今後もやっていかないといけない。
 上京東部のもう一つの特徴として勤務医が多いことがあります。したがって、開業医と勤務医との連携も進めていかなくてはなりません。開業医同士、開業医と勤務医の連携、病診連携によって地域の医療を守っていく。では連携を上手に図っていくためにわれわれは何をやるのか。これがいつまでたってもなかなかうまくいっていません。
 過去いろんな試みがありました。病院からはカルテの見える化を提案されたこともありました。しかし結局できていません。その大きな原因として、個人情報の問題があると思います。これをどう守るかを考えるあまり、つい足がすくんでしまうわけです。克服するには、医師だけでなく、社会全体を巻き込んだ何らかのアプローチをしていかないと難しいのではないか。連携のあり方について、何か一つモデルを示してもらえないだろうかと思っています。
 もう一つの問題は、地域包括ケアシステムです。医師がイニシアチブを取らないといけない課題です。先ほど多職種連携の話が出されました。彼らは医師に、ものすごく期待をしています。どんどん出てきてほしいと。しかし実際にはそういう期待に反し、今一つ積極的に出て行っていない面がある。なぜ出ていかないか。医療という自分の枠からなかなか飛び出せないんです。飛び出していくとストレスが大きいんですよ。また、日々の医療だけでも大変なのに、介護や福祉の面倒を見るには忙しすぎるんです。それで踏み切れないんじゃないかと思います。負担にならないようなシステムをどう作っていくかも大事な課題じゃないかと思います。
 小林 おっしゃる通りだと思います。ただね、地域の介護、医療を考えていく際、医師をまず上に置き、その下にその他の職種の方を並べていくという現在の考え方に、ちょっと問題があるように感じるんです。医師が顔を出さなければその会議は真っ当なものにならないということになると、逆にどうも行きにくく感じてしまいます(笑)。行ったら行ったで、私なんか黙っていることが多い。というのも介護の方、消防の方などのお話を聞くと私らよりもはるかにいろんなことをご存じなんですよ。私は一応、副会長をしているので、そう行った会合には出席しないといけないのですが(笑)、いろんな方のお話を聞くと、ではこの中で自分は何ができるかと考えると悩むわけです。
 飯田 上京東部医師会の抱える問題としては、会員数ですね。14年以降ほとんど新規入会者がありません。しかし、これはどうしようもありません。管轄エリアに御所があり、寺町があり、官公庁もたくさんあり、その他基幹病院もたくさんある。そういった地域の特徴を考えると、今後開業する人がどんどん増えていくような医療圏ではないと思います。この状況で医師会運営をするとなると、同じ人にくり返し負担をお願いする以外にやっていけない。実際のところ過去10年、20人くらいだけで役職を交代しながら運営しているのが実情です。今後、一つの医師会としてやっていけるのかどうか危惧しています。将来的に地区医師会の立ち位置を考えていかないといけないんじゃないでしょうか。

小ささを強みに
 福山 小栗栖さんはどうでしょう。これまで地域の医師会のことなどをお考えになられたことはないと思いますが(笑)、地域の医師会の存在を実感されたことはおありでしょうか。
 小栗栖 そういうことを考えたことはありませんからねえ。初歩的なことですが、上京東部医師会というのはその地域にお住いの医師の会ということですか。
 福山 そうです。この地域の診療所を構えている医師が主会員です。一つのネットワークを作って、患者さんへの対応、行政との話し合いをしています。
 小栗栖 組合みたいなものですかね。
 福山 そうですね。また、親睦団体でもありますね。旅行に行ったり宴会したりすることもあります。入会も自由です。新規に開業しても医師会に入会しないというケースも少なからずありますね。医師に入会の強制はできませんが、ネットワークができるので、そういった点で入会いただくのはとても大きな利点があると思います。医師の連携がスムーズであれば、患者さんへの他科紹介も安心して行えます。
 菅野 私どもの医師会は小規模ですが、先ほどお話しました京都市内の中核病院があり、それぞれの病院の地域連携室との連絡会などもあり病診・病病連携という点では、最近スムーズにいくようになってきています。患者さんを病院に紹介して治療をしてもらい、その後また患者さんを各医院で診ていく。まだまだ課題はありますが、小さいながらの連携はできつつあると思います。
 小さな医師会なのでたいしたことはできないかもしれませんが、地域の医療を最後に支えるのは我々一開業医だという自負を持ち続け、これからも皆さんで頑張っていきましょう。
 本日はありがとうございました。

小栗栖 元徳 氏
御霊神社宮司

菅野 達也 氏
上京東部医師会 会長
菅野医院

小林 雅夫 氏
上京東部医師会 副会長
小林医院

飯田 明男 氏
上京東部医師会 庶務
京都府医師会 理事
いいだクリニック

小川 欽治 氏
上京東部医師会
医療法人 小川医院

福山 正紀 氏
上京東部医師会
京都府保険医協会 副理事長
ふくやまクリニック

ページの先頭へ