続・記者の視点 91  PDF

読売新聞大阪本社編集委員 原 昌平
家族に代行判断権はあるか

 手術をはじめ、侵襲性やリスクの大きい検査や治療をするとき、医療側は、患者本人の同意に加え、家族の同意も求めることがしばしばある。
 本人に十分な判断能力があれば、本人のインフォームドコンセントで足りるはずなのに、なぜ家族の同意まで求めるのか。説明や同意の確実性を担保するためなのか、後になって家族から苦情が出ないようにするためなのか。
 一方、本人の判断能力が十分でない場合は、診療の方針を決めていく際に、キーパーソンという言葉を看護師などがよく使う。しかし、どういう点に着目して、その言葉を用いているのだろうか。
 大切なのは本人への愛情か、本人の価値観をよく知っていることか。あるいは本人のことにかかわる意思のある人なのか、家族・親族の総意をまとめてくれそうな人なのか、方針決定に影響力の大きい人なのか。
 目的や役割をはっきりさせないまま、カタカナの用語が当然のように使われることに、いつも違和感を覚える。
 実際には、医療側にとって助かる存在という位置づけで使われていないだろうか。
 根本問題として、はっきりさせておきたいのは、治療方針の選択や生き方・死に方について、本人以外の誰かが代わりに判断してよいと言える筋の通った根拠は見あたらないということだ。
 法的に考えると、それらは憲法13条の個人の尊厳と幸福追求権に属することで、本人の意向と無関係に他者が決められるものではない。
 緊急性のある医療行為なら、民法上は事務管理(契約によらず、他人のためにする行為)として医療側が本人同意なしで行えるが、急ぎでなければ、あてはまらない。患者が成年後見を受けている場合でも、後見人に医療内容について選択・同意する権限は与えられていない。
 哲学・倫理学的にも、本人の利益のために他者が判断してよいとするパターナリズムの論拠はあやふやだ。欧米では、思考能力が乏しければ人間としての価値がないとする「パーソン論」が強いが、危険な考え方だろう。
 もちろん現実には、本人が判断できなければ、他の方法で決めるしかない。そこで手近な家族に判断や同意を求めることが多いわけだが、それは必ずしも当然のことではない。本人は「家族のもの」ではないから、家族に代行判断権があるわけではなく、あくまでも、やむをえず取る手段の一つと考えるべきだろう。
 家族による判断が一定の妥当性を持つのは、その家族が本人のことを大切に思っていることが前提になる。
 現実の家族はどうか。愛情と信頼で結ばれている家族もいるが、対立や憎悪が存在することもある。医療費の負担や相続、保険金、年金などの利害が絡むこともある。
 DV、高齢者虐待も珍しくない。小さい子どもの医療は親が判断するのが一般的だが、児童虐待があれば、その親は外さないといけない。
 それぞれの家族に愛情と信頼はあるか、利害はどうかといった前提条件の見極めが必要なわけで、よく考えると、なかなか難しい話である。

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