続・記者の視点 86  PDF

読売新聞大阪本社編集委員 原 昌平

田中正造の魂をたどって

 旅先で社会派のスポットを訪ねると印象が深まる。先月は栃木・群馬へ足を運んだ。メインテーマは足尾鉱害と田中正造である。日光から足尾に入り、煙害で荒れた山や観光坑道を見学した後、渡良瀬川に沿って太田、佐野、館林など、ゆかりの地を回った。
 田中正造(1841~1913)は、現在の栃木県佐野市の農家に生まれた。10代で名主になり、地方官吏を経て自由民権運動に身を投じる。新聞社の編集長や栃木県議を務めた後、第1回帝国議会選挙で衆院議員に当選した。
 そのころ足尾銅山の操業が本格化していた。洪水のたびに渡良瀬川の中下流域の平野が汚染され、農漁業に甚大な被害をもたらした。
 正造は、帝国議会の質問で鉱毒による被害を再三取り上げ、足尾銅山の操業を停止させるよう政府に要求した。
 被害民たちは、東京への押出し(集団請願行動)を繰り返した。明治憲法は請願権を認めていたが、1900年、利根川を渡ろうとする数千人を警官隊が弾圧して流血の惨事となった(川俣事件)。
 政府への要請に限界を感じた正造は翌年、衆院議員を辞職し、明治天皇に直訴状を渡そうとした。天皇を統治者とする憲法の規定から考え抜いて取った行動だった。
 その後も政府は、産業基盤である銅山を止めない。代わりに渡良瀬川下流の谷中村一帯を池にして洪水を防ぎ、鉱毒をため込もうとした。
 正造は自ら谷中村に移り住んで廃村反対闘争に身を投じたが、71歳で病没した。
 谷中村は最終的に全戸が強制収用され、広大な渡良瀬遊水地が造られた。流域の鉱害は戦後になっても続き、足尾銅山が閉山したのは1973年。古河鉱業が加害責任を認めて公害調停が成立したのは74年だった。
 公害反対運動の先駆者とされる正造だが、環境問題だけでなく、民権思想の明確さと深さが際立っている。
 川俣事件の4日後、衆議院で「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国」という大演説を行い、冒頭でこう述べた。
 〈民を殺すは国家を殺すなり。法を蔑にするは国家を蔑にするなり。皆自ら国を毀つなり。財用を濫り民を殺し法を乱して而して亡びざるの国なし〉(元は旧字体)
 民衆があってこその国家であり、法を守ってこそ国家ではないのか。質問に政府は答えなかった。その45年後に大日本帝国は亡びた。
 友人への書。〈天の監督を仰がざれバ凡人堕落/国民監督を怠れバ治者盗を為す〉
 晩年の日記。〈真の文明ハ山を荒らさず川を荒らさず村を破らず人を殺さゞるべし〉
 現代にかみしめたい言葉を数多く残している。
 ぬれぎぬを含めて生涯に4回も牢獄に入り、亡くなった時は無一文。地元の人々は今も、田中先生ではなく「正造さん」と呼ぶ。悲惨な現実から出発し、果敢に行動しながら人権、平和、民主の考え方を自分で築いていった。
 人権や民主主義の思想は、戦後いきなりアメリカから与えられたわけではない。暴虐や強権に抗して、民衆とともに闘った人物がいたことは誇るべき伝統である。

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