富士山 関 浩(宇治久世) 第10回 富士山信仰に由来する富士講(下)  PDF

 ~江戸は広くて八百八町、講は多くて八百八講、江戸に旗本八万旗、江戸に講中八万人~と、江戸の町の数ほどたくさんの講があったとうたわれたように、富士講は爆発的な興隆を見せ、関東・中部をはじめ、東北や近畿・中国地方など全国に広がり、伊勢詣り、金毘羅詣りとともに「三大詣り」として江戸の町民に深く根付いた。また、病人や当時入山が禁止されていた女性のために、実際に富士山に登らなくても、富士登山の功徳が得られるとされた富士塚(写真)と呼ばれる富士山に見立てて作られた小さな山があちこちに築かれたほどであった。一方、身禄のミイラはライバル村上派によって打ち壊され(そこまでするか!)現存しないが、彼を祀る元祖室が建てられ、後年、明治15年にそれまで頂上の金明水(きんめいすい)脇にあった天拝所を、八合目に降ろし、元祖室に移し富士山天拝宮(てんぱいきゅう)とし、富士信仰に欠くことのできない重要な霊地として、神道扶桑教によって守り伝えられている。
 ちなみに「講」を広辞苑で引くと、仏典を講義する法会、頼母子講などの意味があるとともに神仏を祀り、または参詣する同行者で組織する団体とある。遥かに望む富士へ行きたい、登って拝みたいと願う者が増え、入山者の増加につれて険しい山内に踏道もできて、庶民も登頂を目指せる状態へ近づいていった。しかし、江戸から吉田までは健脚でも片道3日、吉田から頂上までは少なくとも往復2日、合計8日間の旅は、現在からは想像もできない程の時間と費用がかかった。そこで、庶民に信仰が広がるにつれて、お金を集め代表を選び「講」のもと皆の祈願を託し、登山礼拝する「代参講(だいさんこう)」の仕組みができ上がった。こうして、近世には江戸を中心に各地域で「富士山信仰のための講・富士講」が成立した。江戸時代の文化・文政期(19世紀初期)に隆盛を迎えた富士講は、「富士を拝み、富士山霊に帰依し心願を唱え、報恩感謝する」という分かり易い、一種の新興宗教のブームのようなものだったといえよう。
 また、富士登山のためにやってくる信者たちの世話や指導をしたのが「御師(おし)」と呼ばれる人たちで、御師は富士山および角行の説く信仰の指導者であり、また宿泊所の提供者であり、富士講を広める普及者としての性格を持っていた。かつての御師の家は、今は民宿などに生まれ変わり、その家のたたずまいや富士講の歴史を物語る資料や調度品などが、往時の面影を見せている。
 元祖室を過ぎトモエ館の前に出ると本八合目3380m、ここで須走口登山道と合流する。ここからは傾斜が強まり、胸突八丁と呼ばれ、長い階段が続き、昔から行程中の難所と知られてきた。八合五勺の御来光館3450mが吉田ルートでの最後の山小屋になる。
 段々、息があがり、休憩の回数が増えてきた。「はじめに大きく息を吐いて、その反動で吸い込む」と聞いてきたアドバイスを実践する。
 ここで、「八合目」「本八合目」について述べると、吉田ルートには五合目から八合五勺までに10以上の山小屋があり、標高3020mから3400mまでの全部の山小屋が八合目と称し、一番下の八合目山小屋から一番上の八合目山小屋までおよそ1時間半かかる。戦前は(今の八合目付近が)七合三勺、七合五勺などと細かく分かれていた。戦後、分かり易くするため、上に繰り上げて全部「八合目」とした。戦前の「八合目」は今、「本八合目」となっている。要するに「本八合目3380m」が昔ながらの八合目で、それ以外は元々七~八合目の中間だったわけで、それらが全部「八合目」を名乗ることになったのだ。

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