特集Ⅰ 地域紹介シリーズ14 綴喜静謐  PDF

石清水八幡宮本殿木鼻に施されている象の彫刻

地域紹介シリーズ第14弾の「綴喜」座談会を、石清水八幡宮研修センターの清峯殿で開催。出席者は綴喜医師会会長の芳野二郎氏、茨木和博氏、森岡稔勝氏、河村宏氏、村上匡孝氏、砺波博一協会理事(司会)で、綴喜の地域医療の現状について語っていただいた。また、ゲストに石清水八幡宮の田中朋清権宮司をお招きし、石清水八幡宮の歴史と信仰についてお話しいただいた。

第一部
石清水八幡宮から見た歴史と日本の心

田中 今日は山の上までようこそお越し下さいました。石清水八幡宮は今から1156年前(860年)に、八幡の男山の上に創建されたお社です。おもに国家鎮護の守り神として九州の豊前国(現在の大分県)の宇佐八幡宮から勧請されました。
連れてきたのは、弘法大師空海の弟子で南都(現在の奈良県)大安寺の僧だった行教という和尚です。世が乱れ社会不安が高まった時期で、清和天皇が858年に8歳で御即位されますが、藤原良房が初めて摂政になり、幼い天皇に代わり政治のことすべてを取り仕切るようになります。
民の心が安まらないと、争いごとや犯罪も増えてきます。京の都を守るにはどうすればいいのか。そこで大仏建立の時に功績のあった八幡さまに目が向けられました。
もともとは、応神天皇(第15代天皇誉田別命)が八幡さまです。八幡さまは神様ではありますが、780年ごろ託宣を下されて、仏法を守るため「護国霊験威力神通大自在王菩薩」と名乗られ、菩薩となられることを宣言されました。

石清水八幡宮の誕生

都の不安をなんとかせねばということで、貞観元年(859年)に行教が、宇佐八幡宮に行き、ひと夏の間祈り続けたところ、7月15日の未明に八幡さまが御子神、つまり童子の姿となって現れました。そして「吾れ汝が修善(修行)に感応す(感動した)。吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」と仰せになられたのです。
清和天皇は大変喜ばれ、すぐに八幡さまを祀るよう命じました。工事は夏に建設が始まり、早くも翌年4月には現在と同じ規模の御本殿が完成しています。現在の御本殿をご覧いただくと、神社でもなくお寺でもない。どこかお城のようであるという印象を持たれると思います。それもそのはずで、寺院、神社として建てられたわけではなく、まさしく天皇のおわします宮城としてつくられたもので、他の神社には例を見ない形です。

数々の歴史上人物が参拝

天皇、皇后、あるいは上皇、院と呼ばれる方々が石清水八幡宮にお参りされた回数は現在250度を超えています。伊勢の神宮さんや出雲大社など日本中の神社と比べてみても、250度というのはダントツの数です。
かつては神仏習合の宮寺でしたので最盛期の江戸時代の初期には、2000人ほどのお坊さんが男山全域に宿坊を建てて修行をしながら毎日御神前、または御仏前に上がって奉仕されていました。また、幕府、各藩、武将たち、あるいは朝廷が直接の祈願所を設けてそこで1年中八幡さまにお祈りをささげておられました。松花堂昭乗もその1人です。江戸初期の僧で松花堂流という書の達人で「寛永の三筆」と呼ばれていた人です。林羅山や小堀遠州、千利休といった名だたる文化人が男山に集い、お茶を飲んだり、歌を詠んだり、絵を描いたりしていたようです。
歴代の天皇が国の守り神として大切にされましたので、石清水八幡宮は清和天皇の孫である清和源氏の源、足利、徳川、武田など多くの武家にとっての守護神でもありました。
源氏の中で一番最初に信仰を表明されたのは、清和天皇から数えて5代目にあたる頼義公です。息子の義家はのちに前九年の役、後三年の役という大変な戦いを勝ち抜く方ですが、7歳の春、お父さんと一緒にこのお社に来て、御神前で元服式をしています。その時名乗られた名前が「八幡太郎義家」。八幡さまの力を名前に宿らせ、後の世の武士の鑑となる程の大活躍をされたのです。
源氏だけでなく、平氏もたくさんお参りに来ています。歌会も年に何度か開かれていて、源氏と平氏が歌会に一緒に参加して、とても平和な歌を詠んでいます。われわれが知っている争いばかりの源平の歴史はある意味で一面的なのかもしれません。
菅原道真公も14歳の春、石清水八幡宮に参詣されたほか、清少納言、紫式部をはじめ、平安時代の文化人のほとんどの方が石清水八幡宮にお参りに来られています。
教科書に載っている日本の歴史は、平安時代から近世に至るまでの、皇室、武将の動きをはじめ、誰が生まれ、病気になり、亡くなったかといったことを含めて、実は石清水八幡宮に伝わっている古文書で判明したことが多数あり、質、量ともに日本有数です。石清水八幡宮文書という一括指定になっていますが、約8900点が、国の重要文化財に指定されています。もちろん、内容も信頼性の高いものばかりです。また、武将が奉納した刀や甲冑などもたくさんあったのですが、残念ながら明治維新や第二次世界大戦後に散逸していますので、正しい日本の歴史を知るためにも今後も行方などの調査を進めていきたいと思います。
現在全国に約4万3000社の八幡宮がありますが、このうち2万8000社以上が石清水八幡宮からの御分霊です。お伊勢さん、お稲荷さん、天神さんよりも圧倒的に数の多い八幡さまが全国津々浦々に祀られています。村の鎮守様ということで、一番親しみのある神様ではないでしょうか。

本殿を造営したのは誰?

室町幕府を興すとき、足利尊氏が戦勝祈願に来ています。その後、石清水八幡宮の宮司の娘、紀良子が義詮(尊氏の子。第2代将軍)に嫁ぎ、義満(第3代将軍)を生んでいます。その足利義満も室町幕府の守護神として、石清水八幡宮を信仰し、生涯にわたり計27回お参りに来ています。
室町幕府が奉納したと考えられる、大変古い形式の雨樋が御本殿に残っています。知名度では信長が秀吉に命じて寄進した黄金の雨樋が上ですが、本殿を参拝されるとき一番手前にちょっと錆びた青銅の樋があります。これが足利将軍家から奉納されたものです。石清水八幡宮の社殿に現存する最も古い時代のもので、室町時代に奉納された雨樋が、今なお現役で使われているわけです。
近年本殿を整備した際に作成した調査報告書で、実は様々な新しいことが判明しています。それまでは本殿はよくわからない建物でした。1634年寛永年間に徳川家光が造営したものであるとして、重要文化財に指定されていました。
実は、家光が石清水八幡宮を修造した3年後に日光東照宮が完成しています。東照宮と比較してみますと、彫刻類は、大部分が左甚五郎作と伝わっており、その特徴を認めることができます。ところが屋根の破風の形、幣殿、舞殿の彫刻類などは江戸時代の作風とはかけ離れており、それより古い時代のものであることは明らかでしたので、古文書を調べてみると、それを裏付ける証拠が多く出てきました。
家光の石清水八幡宮に対する寄進額は約2000石です。その前、慶長年間に豊臣秀頼(秀吉の息子)は1万石出し、さらにその10年ほど前には秀吉が1万8000石出しています。さらにその前の1580年には織田信長が2万6000石を修造のために出していることがわかりました。
信長が石清水八幡宮に黄金の樋を寄進したのが1580年であったことは以前からはわかっていました。この時、信長は御本殿の総合修理を行っています。全部解体して作り直すので、黄金の樋もかけることができたわけですね。黄金の樋が設置されている位置というのは、建物を全部分解しないとつけられない場所なんです。
一方、家光の寄進額2000石で、できるのはおそらく屋根の張替えぐらいです。それでは、現在の本殿を造営したのは一体誰なのか? これはきちんと調査した方がよいだろうということになり、各方面の専門家と一緒に2007年から調査を行いました。
調査していきますと、信長の死後、遺志を継いだ秀吉が、回廊を再興し、その後江戸時代に入ってから彫刻を付け替えたのが家光だったことが判明しました。

神仏分離令の影響

明治維新で神仏分離令が出され、残念ながらお寺と神社が完全に分けられてしまいました。これ以降、全国津々浦々にあった数多くの神社の中でも、特に大きな信仰を受けてきた、歴史ある官弊社、国弊社の神主は全員国家公務員、つまり神祇官として、国の決めたことしかしてはいけなくなりました。石清水八幡宮に幕末まで1800人ほどいたお坊さんは、一夜にして身分を剥奪されて追放されたり、還俗させられ、名前までも変えられました。
それと同時に、日本人の古くからの死生観、御魂観など、神仏習合で千年以上やってきたような祭りや考え方のほとんどが失われました。そうして日本人の死生観は、宙ぶらりんのまま現在に至っているのではないか。私はそう考えています。

幸之助翁とエジソン

近代以降、武運長久の神としての信仰ももちろんありますが、どちらかというと国家鎮護という信仰から著名な方々がお参りに来られるケースが多くなります。
出光興産の創業者の出光佐三さんは会社を興される際や、日章丸事件の際にも、御祈願に来られています。出光さんは、日本の国を守るために頑張った方です。これからは石油の時代がやってくる。そうなると必ず欧米の石油メジャーたちに日本が食い物にされるという危機感を持ち、ならば自分たちでタンカーをつくろうと、日本を守るためにつくられたのが出光興産であり、日章丸でした。
近代以降、最も有名なのはなんといっても松下幸之助翁です。ここにあるのは、トーマス・アルバ・エジソン本人が奉納した竹のフィラメント(電球の発光部分)が使われた電球です。幸之助翁も創業祈願の際に、まさにこのランプの光をご覧になっています。幸之助翁は私の祖父と面談し、創業の思いを告げられました。世界中の人たちを幸せにしたいという強い想いを持っておられたということです。
これがその光です。フィラメント部分は男山の真竹を使っており、2000時間以上点灯することができます。エジソンは世界各地の竹で試してみたのですが、男山の真竹以外は、長くても1200時間程度だったと言います。石清水八幡宮の男山からアメリカのエジソン電球株式会社に対し、竹が約11年間輸出されました。世界中を明るく照らした初めての電球の光は男山の真竹だったのですから、本当に不思議なご縁ですね。
最近いろいろな社会を騒がす事件が起こっています。金を持てればそれでいいと考える若者も増えてきているようです。こういった風潮に対して、経済的な豊かさより、心の豊かさの充実を求めるべきではないか。そんなふうに感じたときは神社に来ていただきたいと思います。自分たちの祖父母、曾祖父母、そういったご先祖さまも、様々なご縁で出会われて、命を紡いでこられました。この希縁の連続の中で今の私たちがいるんだということを感じていただけると思います。ここには千年前と変わらない気が流れています。信長、秀吉、あるいは清少納言、清和天皇がまさしく見てきたものとまったく同じ風景が今でもたくさん残っています。

失われた死生観

栃波 私は八幡で開業していますが飛び地でして、診療所3階の書斎から木津川をはさんで石清水八幡宮を見ることができます。開業するときは、そんないい場所にあるのだったら、うまくいくよう毎朝石清水八幡宮に向かって手を合わせなければいけない、とよく言われたものです。それで開業直前に初めて訪れました。それ以来、診療所から手を合わせています(笑)。
茨木 国宝に指定されて何か変わったことがありますか。
田中 一番変わったのは、観光で来られる方がものすごく増えたことです。若い女性も含めてずいぶんにぎやかになりました。それまでは、石清水八幡宮はどちらかというと信仰の神社で、昔からの信者さんが静かにお参りに来られるところでした。
また、町との関わりも大きく変わりました。参拝者が多く来られるようになると、地域の発展のために八幡宮がこれから果たしていく役割が増えてきますので、町と一体となった観光振興の実現について、期待が高まってきているようです。
八幡市は京都や大阪のベッドタウンという意識が強かったのですが、それだけではなく、すばらしい日本の文化、世界の平和のために役に立つ文化がたくさんあると思います。伊勢のお社の次に大切な神社がここにある。八幡だけでなく、枚方、交野、大山崎、京田辺にも掘り下げられるべき歴史文化がたくさんあります。京都府、大阪府という枠で考えるのではなく、山城エリア、綴喜エリアで観光創生、産業創生といったことを考えていける。産官学民の連携を深めればできるのではないかと感じています。今回国宝に指定されて、ようやく見えてきたことです。
森岡 診療をしていますと、元気な高齢者もおられますが、中には「死」に対する恐れを口にする方もおられます。人生の最終段階、終末期での神職の考え方はどのようなものでしょうか。
田中 今、日本人の多くに死生観というものがなくなっているのではないかと感じています。小学校でも命についての授業をやっておられるんでしょうが、特に公立では宗教性のない、抽象的な内容だと思います。しかし本来、宗教性のない命の授業などあり得ません。聖路加国際病院の日野原重明先生も示されていますが、今の人たちが一番不幸なのは、自分の命がどこから来てどこに行くのかを知らずして生きていることだ、と私も思っております。
昔の日本では、家の中、あるいは村や町の中で、自分の命はどこから来てどこへ行くのか。だからどう使うべきなのか。毎日どう生活しなければいけないのか。何に対して畏敬の念をもって、何に対して感謝しなければならないのか、教えられていました。こういったことが日本人のしきたり、ものの考え方、生き方につながっていたのだと思います。
もともとの日本人の死生観を紐解いていくと、人間というものは宮から来て宮に帰る。神社から来て神社に帰る。山から来て山に帰っていく。野から来て野に帰っていく。だから、家族や友人をはじめ地縁血縁を大事にしなさい、と教えられてきました。ご先祖さまはみんなともにおられるという考え方でした。
(4面に続く)

2016年2月に国宝に指定された石清水八幡宮の本殿
エジソンのランプをつける

第二部
「在宅」を起点に見る地域医療の姿

在宅医療を阻む地域の課題

砺波 田中権宮司、貴重な話をありがとうございました。引き続き、綴喜地域の地域医療について、語り合っていきたいと思います。まず前会長の茨木先生からいかがですか。
茨木 綴喜は横に長い地域です。宇治田原町、井手町はどちらかというと医療資源の乏しいところだと言えます。それに対し、京田辺市と、八幡市についてはまあまあ医療資源は揃っています。両市については地域完結型になっているとは思います。ただ、最近国が進めている在宅医療ということになると、まだまだ取り組みができていないのではないでしょうか。それが実際だと思います。
芳野 老人ホームに診察に行っているのですが、そこには必ず医療資格者が1人はいます。毎日入所者の体温、血圧などを測っています。一方、在宅の場合、「今日は具合が悪いんです」と連絡がくるだけで、どういう状態なのかわからないことが多い。ずっと熱を測ったりしているわけではなく、ただ今日は状態が普段と比べておかしいというだけなのです。医療スタッフが常にいて、常時見ることができる状態と、在宅で家族の方が介護しているのとでは状況がだいぶん違ってきます。国の政策では、病院から在宅に移そうとしていますが、家族が毎日医療スタッフのように看ることなんてできませんので、そういう点でも難しいのではないかと思います。
それと在宅診療というと診療報酬の点数が高いじゃないですか。家族の方に「これから訪問診療にしましょう」と料金を提示すると、びっくりされます。通院していただいた場合、私のところは院外処方なので、1割負担だとだいたい440円です。それが在宅ということになると月4000円から5000円になる。とても払えませんということになるんですね。
砺波 地域によっても違いますしね。私の医院の周辺にはまだ農家がありますので、大家族が残っています。けっこう家で介護したいというケースが多いように感じます。
河村 旧村でも最近は若い人がいません。親は旧村に住んで、子どもたちはちょっと離れたところに新しい家を建てて住んでいる。親が倒れた時、きっちりと介護を継続してできるかというと、もうそれだけの力のあるところは少ないと思います。一方で国は「女性活躍社会」と言っていて、奥さんをパートでもいいから働かせようという方針です。それなのに在宅、在宅と患者さんを病院から出そうとする。相反することをやっているのではないでしょうか。
さらにもう一点、高齢者の医療で問題となってくるのは、率直に言って、薬剤の問題ではないでしょうか。例えば、少し認知症の症状があって、糖尿病、高血圧の症状がある患者さんが特養に入所されて、所内できっちりとした医療を受けられた場合、8割から9割の人は低血糖の症状が出ます。なぜかというと食事コントロールがうまくいかないからです。朝昼晩、カロリー制限をした場合、お薬がオーバーになるケースが多いのです。
ところが、病院から退院してきたら、普段の食事に戻りますので、血圧が上がってしまうことになるんですね。そうしたことに家族は振り回されることになる。
芳野 家族としても、血圧が150もあるし血糖値が200もある。これをどうにかして下さい、ということになる。そう言われるとお薬を出さざるを得なくなるんです。食事内容を改善して下さいと言っても難しい。
河村 その人にとって何が幸せなんだということも考えないといけませんね。残された人生で、食べたいものを食べて過ごしたいと思っておられるかもしれない。医師としてどんな医療を提供するのが正しいことなのか。患者さんの人生観にもよるでしょうし。
森岡 私は耳鼻科ですが、耳鼻科や眼科、皮膚科、整形のドクターが在宅医療にどう絡んでいくのかということも課題です。実際に特養に行って、耳垢を取ったり中耳炎で耳洗をしたりすることもありますが、大したことはありません。私たちはどうアシストすればいいのか、模索しているところです。

休む間もない地域医療の現実

砺波 八幡はとくにそうだと思いますが、綴喜全体を見て感じるのは、医師の数が少なくて、一人ひとりにかかる公務が多いことです。スケジュール帳を見ると、3歳児検診、介護保険の会議などなど、ほとんど埋まっています。一人何役もやっている医師が大勢いる。私は非専門の乳がん検診を3年前からやっています。自分の時間がほとんどありません。もう少し若い医師が、開業してほしいと切に思いますね。
芳野 私は警察医・産業医をやっていて、残業時間が100時間を超えた職員に問診等をすることになっているんですが、早朝や夜に呼び出されることが多く、私自身は100時間なんてゆうに超えているんです(笑)。私の娘も医師になりましたが、後を継ぐ?と聞いても嫌だというんです。娘に言わせると、私の生活、QOL(quality of life)はどうなるのということになるようです(笑)。
砺波 一般の人は開業医の仕事というと、医院で午前、夕方の診療、訪問診療くらいしかご存じないと思うのです。しかし実際には学校医、警察医の仕事があり、介護保険に関わる業務、そして各種検診、予防注射の仕事があり、しかもそれらは医院の診療時間以外の時間帯でやっているんです。はっきり言って週休2日なんて夢のまた夢です(笑)。

境内に病院を

田中 これは個人的な思いですが、石清水八幡宮で考えているのは、境内地、あるいは隣接地に病院をつくれないかと思っています。かつて地域医療と神社は非常に近い関係にあり、宗教者イコール医師とみなされていた時代もありました。神社は全国津々浦々どこにでもあるので、例えば心のケアを神主が担っていくことは可能だと考えています。そういう点では、地域医療との連携も大いにできるのではないかと思います。境内には自然もたくさんあるし、祭り事もたくさんある。ターミナルの方々のみならず、患者さんの家族の方々も安心を得ていただけるのではないかと思います。
森岡 耳鼻科の患者さんでも、怖いとか心配ごととか、けっこう内的なところで病気を抱えておられることがよくあります。そういうところで克服されれば病気は減っていくのではないかと思います。
田中 昨年、父ががんに罹患し、今年に入ってからは母が不整脈になり心停止して病院に担ぎ込まれるということがありました。身近な人間の死を意識した時、私は神主ではありますが、死後、人はどうなってしまうのだろうと、とても心配になったものです。一般の人ならなおのことだと思います。
村上 田中さんから医療と神社とのつながりのお話をお聞きし、私自身感ずることがあります。先ほど石清水さんへの参拝をすませてきたんですが、静寂の中に「気」を感じました。観光に来ていた方もたくさんいましたが、その場で騒ぐ人がいません。静かだから騒がない。耳をすませば風の音が聞こえる。鳥のさえずりが聞こえる。夏でしたら虫の声が聞こえるのでしょう。神社の神域では癒しといいますか、本当に心が安まります。現代人が抱える不安にもこたえていけるのではないでしょうか。
在宅医療についてですが、今とても重要な問題は、嚥下、食べ物を飲み下すことがあげられます。ところが、今年の診療報酬の改定で、在宅でいうと、訪問して口の中の衛生、清掃等歯科に点数がついて、歯科がどんどん在宅医療に入ってくるようになっています。歯科医と耳鼻科医との間に意見の相違があると、患者さんの立場からは好ましくありません。当然、意見交換や連携が必要になってくると思います。今の診療報酬では、われわれが在宅医療に関わって訪問診療したとしても、かかりつけ医の先生にしか点数はつきません。そういったことも、医師会が提携病院との関係の中で踏み込んでいき、今後解決できたらと思っています。
砺波 国が進めようとしている地域包括ケアも、地域のいろんな資源を最大限に使うことが理想です。田中権宮司のお話をお聞きすると、各地域のコミュニティの中心に古来からある神社のパワーを使わない手はないと思いました。面白いアイデアだと思います。本日はありがとうございました。

田中朋清氏(石清水八幡宮権宮司)
芳野二郎氏(綴喜医師会会長)
茨木和博氏
森岡稔勝氏
砺波博一氏 協会理事(司会)
河村 宏氏
村上匡孝氏

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