芳年ワールドのフィナーレは大判横三枚続の美人画で終わりたい
総じて風俗美人画を好む小生の芳年続絵代表作を掲示する前に、今さらながらの浮世絵に関する話をさせていただく。毛筆による墨線だけで描いた「白描画」とともに木炭を用いた「素描」( 仏語・デッサン英語・ドローイング)も「肉筆絵」であり本邦では昔から百花繚乱であった。一方、多色刷木版画を指す「錦絵」、画稿をきれいな線で清書し決定稿となる「版下絵」、墨一色で摺られ一枚絵として独立させた墨すみ摺ずり絵え 、その類型として10色以上の色を使う錦絵の登場前には紅べに花はな、鉱こう物ぶつならびに漆うるしで作られた赤色彩色の「紅摺絵 」「丹絵 」および「漆絵」と称したバリエーション豊かな手法もあった。18世期初頭にドイツ・ベルリンで発見された鮮やかな青色の化学合成顔料(ペルシアンブルー)は日本ではベルリン藍あい(ベロ藍や北斎ブルー)と呼ばれ、江戸時代後期には従来より使われていた蓼たで藍あい(草木・インディゴ)や岩いわ群ぐん青じょう(藍銅鉱・アズライト)に代わり、浮世絵では多用された。またこの青一色だけ仕上げるのを「藍あい摺ず り絵」や派手な錦絵を嫌い茶、紫や薄墨など渋い色だけを使った「紅べに嫌きらい」ならびに版木に絵の具をつけず強く摺ることで凹凸を浮き出させる「空から摺ずり」、さらに金・銀・雲母を入れた膠で摺る新手法も出現した。ではまず、刊行順に魁斎と玉櫻芳年の号で元治元(1864)年に発表したベロ藍が使われている「今いま様ようげんじ
江え乃の島しま稚ち児ごヶが渕ふち」(図1)の場面を観ると迸ほとばしっている美しい波は濤とうの中、半裸の4人の海女たちの内、2人は海中でアーティスティックスイミングよろしく上下に躍やく動どうしつつ江の島海浜にて鮑を採っており、もう2人は現れた岩礁に上がり立派な獲物を陰部を押さえつつ恭うやうやしく差し出しているように深読みしてしまう。それを見物する派手に着飾った足あし利かが光みつ氏うじと籠かごらしき物を持つお付きの女を動どう静せい真ま 反はん対たいに描いている。ところで余題ながら刊行された元治元年当時は幕府による浮世絵の裸体表現がいまだ御ご 法はっ度と (明治元年には撤廃されたと聞く)であったと思われるが、それが少々不思議である。もう一つの横三枚続の美人画「全盛四季春荏原郡原村立春梅園」(図2)を眺めていこう。武蔵の国荏原郡の梅園で花か 街がいの3人の教養ある江戸の芸者衆が和歌を詠み、それを短冊にしたため梅見を楽しんでいる姿がいかにも粋である。「全盛四季」シリーズは明治16(1883)年に「夏根津花大松」から刊行されたようだ。しかし誌面制限の関係で掲載できなかったので、イメージだけ発しておくと根津遊郭大松楼の6人遊女の入浴風景を描いている。内、4人はすでに入浴を済まして寛いでいるようで、文を読みつつ乱れた髪を梳すく女を始め、肌を洗うための糠ぬか袋ぶくろを口にくわえたり、湯当たりなのか扇子や手ぬぐいを使って涼んでいる半裸の女達が纏まとう斬新な柄の浴ゆ衣かたが印象的だ。同名「冬」は大雪が積もる庭を背景にお茶を沸かす遊女と三味線を弾く遊女の中央には芳年も足繁く通った幻太夫と言う花魁がユズリハの葉を耳、ナンテンの実を目として作った雪ゆき兎うさぎを盆に持ち語らっている。なお、残念ながら同名「秋」は出版されなかったようだ。計10回にわたり、小生の決して優品・名品とは言えない月岡芳年の浮世絵を通じて、江戸末から明治期の豊かな文化の香りとともに最後の浮世絵師と称された素晴しい画業の片鱗を感じてもらえれば誠にありがたいと考えます。稚拙極まりない乱文10編にお付き合いしていただいて深謝いたします。蛇足ながら小生が8年間赴任(静岡県立総合病院)していた愛妻の郷里でもある霊峰富士を仰げる静岡市清水区狐ヶ崎(吉川友兼所有の国宝本太刀で有名)にて、小さな「奇骨庵古民芸骨董美術館」(JR静岡駅より徒歩5分程で静岡鉄道新静岡駅で乗り換え狐ヶ崎駅下車徒歩5分、イオン向かい専用駐車場あり)を令和8年晩春に竣工すべく奮闘中の旨、もし駿府に来られる際には立ち寄っていただければ望外の喜びです。破爪亭糞装師拝