最後の浮世絵師 月岡芳年の魅力 武田 信巳(西京)第5幅  PDF

芳年が描いた
武田家・御先祖様?の戦い

 第5回となったエッセイ冒頭にそぐわない私的なことを述べるのをお許し下さい。まず京都市立病院整形外科前期研修から始まった小生の勤務医キャリアは約15年にわたる兵庫県立尼崎病院・静岡県立総合病院を経て、大恩師・森英吾元市立病院院長の計らいで再び市立病院の医長に赴任した矢先、産婦人科医の父・信雄のMLの発症ならびに急逝にてあまり予期しなかった開業医生活に平成5年から入ってしまった。その後約31年余り、阪急電鉄桂駅周辺で整形外科を始め身近な医療を担おうと突っ走って来たが、今となったら十分な地域貢献を挙げることは叶わなかったと思えてならない。ところで本来、小生の父が長男だったので上桂の実家を継ぐべきだったが、有床の産婦人科医院を桂で開業したため飛び出し現在、従弟の信英先生が武田内科・小児科医院としてしっかり守ってくれている。
 ところで小生含めて男系医家である武田家が現在まで10代続いていると確認できたのは叔母の故・幸子さんが供待と呼んでいた部屋の大きな箱の中にあった江戸時代の有名画家・原在中とのお付き合いや嵯峨御所からの法眼位に宣示された記録等が記された数多の古文書を解読された結果であった。それによると武田家系譜は1703年、智照院の子息であった京都からの初代、大覚寺門跡(皇族・公家が住職を務める特定の寺院)附の寺侍・武田信澄から始まり信定、信重(医業を確認できたのは3代目信重から)、信翼、信立、信成、信壽、信三(祖父)、信雄・信次(実父・叔父9代)につながり、当代で約300年余となるようだ。ところで武田信玄(晴信)との関わりは全く定かではなく小生の妄想につき笑止千万と一蹴されるのがオチだが、恐らく明治期の創作だろう所在不明の父が所有していた巻物の家系図を垣間見た記憶から、嘘か誠か信玄直系長男である武田義信の可能性も捨てがたいようだ。信玄の妻、つまり義信の母は三条内大臣(天皇の側近にあって補佐する宮中官職)公頼の娘であり京都に縁が深い。故に義信の子孫や一門が公家である三条家を頼って都に来ても不思議ではないと愚考している。やっとここで芳年との接点が出てくるのだが、ともに一魁斎と号する余り見ない凄まじい武者絵である勝ち戦「武田勇士血戦之図」(横3枚続き図1)と負け戦と思われる「川中島大合戦山本道鬼討没之図」(横3枚続き図2)を披露しておきますので、代わりに前述の戯言を何卒お忘れ下さい。

(図1)月岡芳年「武田勇士血戦之図」(号は一魁斎)
(図2)月岡芳年「川中島大合戦山本道鬼討没之図」(号は一魁斎)

ページの先頭へ