鈍考急考 62  PDF

まやかしの用語をやめよう
原 昌平 (ジャーナリスト)

 戦時中、日本の軍隊の最高司令部である大本営は、撤退・敗退を「転進」、全滅を「玉砕」と発表し、美辞麗句で敗色をごまかしていた。
 現代の日本でも、まやかしの用語がまかり通っている。
 代表格は、公的年金の「マクロ経済スライド」である。
 この言葉を聞いた人は、物価や賃金の伸びに合わせ、年金額を引き上げることかな、という印象を抱くだろう。
 ところが、マクロ経済スライドの発動は、年金支給額を抑え込むことを意味する。
 毎年度の年金額の改定は、前年の物価上昇率(年平均の全国消費者物価指数)を基本にするが、それより賃金変動率(4年度前〜2年度前の3年間を平均した名目手取り賃金変動率)が低いときは、賃金変動率を用いる。これだけでも給付抑制になる。
 さらに、公的年金被保険者数の変動と平均余命の伸びをもとに、年金財政の維持のために、アップ率を減らすのがマクロ経済スライドである。
 この制度は2004年度に法定され、15、19、20、23、24、25年度に発動された。
 25年度(今春)の年金額改定では、物価変動率が2・7%だったのに対し、賃金変動率が2・3%なので、後者を使った。そこからマクロ経済スライドによる調整率0・4%を差し引いて、1・9%の引き上げにとどめた。
 物価上昇より低い引き上げ幅に抑え込むのだから、年金受給者の生活水準は下がる。
 制度の本質を表現するなら「マクロ財政ブレーキ」とでも言い換えるべきである。
 医療や介護の世界で使われる用語は、どうだろうか。
 たとえば「抑制」。患者の自由な動きを制限するという意味で広く用いられている。
 帯、ひも、ミトン、つなぎ服、車いすベルトといった道具で物理的に制限することもあれば、薬剤を投与して化学的に制限することもある。言葉による心理的抑制もある。
 「拘束」という言葉の響きがキツイから、抽象的な用語である「抑制」を使っている面があるのではないか。
 「拘束する」より、「抑制する」のほうが、やる側の抵抗感は少なくて済む。
 身体拘束を「縛りつけ」と呼ぶことにすれば、相当にやりにくいだろう。
 精神科領域では「非自発的入院」という用語を使う人々がいる。国際的に使われていることも一つの理由かもしれない。知的でカッコよさそう、という感覚かもしれない。
 措置入院や医療保護入院は本人の同意を得ていないから当然、非自発的入院である。
 では、本人の同意を得て行う任意入院はどうか。
 自分から入院を希望する人は少ない。家族や医療従事者から説得され、しかたがないと同意するケースが多い。
 言葉の意味からすれば、後者の〈しかたなく同意〉も非自発的入院にあたり、権利擁護の手だてを本気で講じるべきだが、そういう議論をする人はめったにいない。
 結局、「強制入院」というキツイ言葉を避けるための言い換えになっていないか。
 人間は言葉で思考する。しかも言葉の響きやイメージで受け止める。たかが用語、と侮って放置してはいけない。

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