小生と芳年の邂逅とその見事な画業
新連載
小生は高校時代から大学を経て医師になって約30年余、ラグビーに奮励したが静岡県立総合病院に8年間赴任していた時、所属チームだった関西ドクターズフットボールクラブの試合で3回の手術を要したunhappy triad knee injuryを契機に現役を退いた。一方、生来のアート好きは、産婦人科医院を阪急電鉄桂駅前で開業しつつ趣味にて日頃、作画に勤しんでもいた父・信雄の遺伝に加え、中学時代には美術部部長を押し付けられたので貧弱ながらその素地があったかもしれない。
ところですでに46年間の臨床医生涯を退き約半年余り、長年の夢を実現しようと画策していた矢先の2024年9月、京都府保険医協会の新聞担当事務局・K氏から実は嬉しくもある突然の執筆依頼を無謀にも軽々しく受けた次第である。したがって医学生時代に取得した古物商免許を有し、東洋医学専門医の看板を生かした整形外科医院とともに薬膳ランチを提供していた”アンティークギャラリーコクシックス”も併業していた小生の似非(えせ)芸術駄文に数回付き合ってもらえれば望外の喜びである。
まず標題の月岡芳年は歴史・合戦絵から風俗・美人画に至る多種多様な刷物である木版画の浮世絵を主に手掛け、幕末から明治中期に一世を風靡したが、小生における最近の蒐集主眼である油絵やみづゑによる肉筆画は元々、四条派の松月という絵師に師事したものの比較的稀である。小生と芳年浮世絵との出会いは20歳過ぎの頃、定期購読していた昭和49(1974)年11月号の「美術手帖 特集:芳年―狂気の構造」を読みふけると興味深く、たちまち弱者への共鳴や反情精神と近代性を現出している芳年ワールドに惹き込まれてしまった。後年、表紙になっていた代表作の一つで月百姿(つきひゃくし)の内、明治18(1885)年に出版された「朝野川晴雪月 孝女ちか子(あさのがわせいせつのつきこうじょこ)」(図1)にたまたま出くわし、本紙右下端(いわゆる・耳(みみ))に小さな欠損があったのでかなり安価で手に入れ、これが浮世絵など泥沼骨董蒐集の第一歩となってしまった。
り書き初回につき、芳年の略歴を記すと、天保10(1839)年江戸商家に生まれた幼名・米次郎は12歳の年、小生が大好きな歌川国芳に弟子入りし、3年後の嘉永3(1853)年には早くも浮世絵処女作物語絵「文治元年平家(ぶんじがんねんへいけ)の一門(いちもん)亡海中落入(ぼうかいちゅうおちい)る圖(ず)」(図2)を一魁斎の名で発表した力量と非凡さには驚きを禁じ得ない。最盛期は200人余りの門弟を抱え、躁鬱状態に陥った後、快癒し大蘇(たいそ)という雅号を用い「東京流行細見記」の浮世絵番付で1位となり、当代、最高の人気絵師に登りつめた。しかし晩年は多忙な製作、飲酒や金銭トラブルが引き金となったのか、明治25(1892)年に54歳で脳溢血にて急逝した。
次回より幾多余りある芳年作品の内、代表的な武者絵、物語絵、怪奇絵、戯画、美人画等から選択して小文ながら紹介したい所存であります。最後に芳年の門弟年景が謹写した芳年の追善絵を挙げておきましょう(図3)。辞世の句は「夜をつめて照まさりしか夏の月」。
図1 月岡芳年を特集した昭和49(1974)年11月号の美術手帖表紙は晩年の代表作月百姿の一つ「朝野川晴雪月 孝女ちか子」
図2 芳年15歳、号は一魁斎での処女作「文治元年平家の一門亡海中落入る圖」(小生行きつけ浮世絵専門店・アート芳桐提供)
図3 大蘇芳年追善絵金木年景筆、明治25(1892)年辞世の句は「夜をつめて照まさりしか夏の月」
たけだ・のぶみ
1978年川崎医科大学卒、79年京整会入局後、京都市立病院整形外科等、前期研修(大恩師・森英吾先生はじめ太田和夫・濱本肇・一坂章先生等に師事)、84年兵庫県立尼崎病院後期研修(芦田一彌先生に師事)、8492年静岡県立総合病院(再び濱本肇・琴浦良彦先生に師事)ならびに93年京都市立病院医長勤務後、父の急死を機に同年10月から2024年1月まで阪急桂駅西口にて武田整形外科医院と健保外自費診療の雲水堂美容鍼灸院および2013年8月から23年7月まで通所リハビリ(Narrative OMR & C)を経営していた。併せて西京整形外科病院勤務医・開業医有志による病診連携の会を2004年4月から23年11月まで(年2回)計37回主催しつつ、京都府医師会看護専門学校講師を25年間担当した。資格は日整会リハ・スポ・RA医、日体協スポドク、日本東洋医学漢方専門医、運動器リハ認定医等。
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破瓜亭糞装師
奇骨庵主人
筆者(右端)の医業(勤務医・開業医45年)引退を記念とした武田・八木両家集団肖像画(石川総一郎氏作)