去る年12月、京都ヒストリカ国際映画祭が京都文化博物館であり、ある映画が公開日前上映された。種痘を推進・実施して、北陸地方での天然痘エンデミックの鎮静に貢献した福井藩の町医者で漢方医、後に京都で蘭学を修めた笠原良策を描いた『雪の花―ともに在りて―』である。
天保8(1837)年福井の町は、大暴風の襲来から雨も多い冷夏で、耕作物は大凶作、餓死者も増し、天然痘患者も出始め、瞬く間に広がり、全国的にも流行した。天然痘は感染しやすく、患者は全身に醜い吹き出物ができ、膿が出る。激しい高熱が出て、うめいて身もだえして死んでゆく。病状軽く死を免れても、吹き出物の痕が深い窪みとなり、顔中体中あばただらけになる。治療方法が知られぬ時代で、感染を恐れ医師さえ患者に近づかない。
主人公は文化6(1809)年漢方医・笠原竜齋の子に生まれ、15歳から福井藩医学所にて漢医学、江戸で古医法を学び、帰郷して20歳代で開業する。天然痘の流行が下火となって、山中温泉に療養に行き、加賀国大聖寺から来た蘭方医の大武了玄と知り合う。大聖寺に赴き蘭文の手ほどきを受けるなど蘭学の重要性に目覚め、京都の蘭方医で長崎のシーボルトにも師事した日野鼎哉から「名声・利益を求めるな」と一喝され天保11(1840)年入塾し、熱心に研鑽して頭角を現す。翌年3月福井に帰り、蘭学の勉強会を催したり、天然痘の流行を目の当たりする。1796年牛痘を用いてイギリス人ジェンナーが天然痘予防を試みた種痘の実施の重要性を知り、牛痘苗の入手に唐から(清)からの輸入を藩主・松平春樂に願うべく、嘆願書をしたため、町奉行所に提出するが長らく放置され、蘭医で藩主の侍医の半井元冲にも嘆願書を示し、種痘に必要な牛痘苗の輸入が許されるよう藩主への嘆願を懇願した。元冲はその後、江戸に出仕し、側近を通じて藩主に嘆願書を見せ、春嶽から老中阿部伊勢守正弘に許可願いがなされ、輸入が許可される。
上記が物語の粗筋であるが、実際はすでに鼎哉の長男や弟子の医師が長崎に行き、唐通事の孫の腕にできた牛痘苗のかさぶた8個を入手して送付され、鼎哉の孫7人に接種しやっと一人に発痘して京都で継代接種され圧巻である。同じ頃、良策も上洛し、福井藩に持ち帰る算段に、京都で幼児に種痘して、途中藩境辺りで他の幼児に継代種痘する。その雪道を親子連れとともに山越えする映像表現もなかなか良い。ぜひご観賞下さい。
『雪の花 ― ともに在りて ―』
小泉 堯史 監督
松竹 2025年1月公開
吉村 昭 著
1988年 新潮文庫