92歳になった今も診療を続けている医療法人正木医院(京都市上京区)の正木美智子医師。長男の浩哉医師に医院を引き継ぎながら、自身も週3日診療に携わり、時々往診にも出かける日々を送っている。
北野天満宮の鳥居のすぐそばにある正木医院で、地域とともに開業医人生を歩んできた美智子医師にその半生を語っていただいた。
開業医は患者さんの日常を診る仕事
「先生の顔を見ると元気になる」の言葉に報いたくて
内科医になって68年
医療法人 正木医院
正木 美智子 医師(西陣)
「大学に行きたい」
祖父や父と同じ医学の道に
生まれは兵庫県です。終戦の昭和20(1945)年3月に神戸大空襲に遭い、家が焼失し、親族がいる京都に移り住みました。兵庫県立神戸第一女学校にいた頃です。終戦後、学校の新制度が始まり、男女共学になりました。京都に転居し、京都府立京都第一高等女学校(現:京都府立鴨沂高校)に入りました。卒業する頃には女性も大学に行ける世相になり、私も大学に行きたいと思いました。祖父や父が医師でしたので、医学部以外の道を想像できなくてね、それで今の京都府立医科大学の医学部に入り、医師になりました。第一内科の研修医、助手を経て、大学の同窓生で同じ第一内科の夫・清孝と結婚しました。結婚後は子育てと研究に追われる日々でした。
正木医院を承継
「診療と往診で忙しかった」
私の嫁ぎ先の正木家は義父の清が開業した正木医院です。昭和2(1927)年に京都市北区の平野神社の東側で開業しました。その後、清は第二次世界大戦に召集され、終戦後は京都に戻り、北野天満宮のそばの滋賀銀行があった今の場所に医院を移転しました。その頃は医者の数も少なく、非常に忙しかったと聞いています。冬の寒い夜中でも患者さんから熱が出たと電話があると自転車で往診に行っていました。義母は心配しながらその帰りを待っていたと言います。やっと家に帰ってきて身体が温まったかと思った頃に、また電話が鳴って往診に行くことも多かったそうです。それでも当時の医者は当然のように往診に行っていたのは本当にすごいなと思いますね。
昭和45(1970)年頃に清から正木医院の承継の話が出ました。当時、夫の清孝は大学院に在籍していましたので、私が医院を引き継ぐことになりました。引き継ぐと決めた時は「本当に後を継げるだろうか」と不安な気持ちもありました。いざ医院を継いでからは、午前と夜間の診療、昼間は往診と結構忙しく、それでも学術会議や研究会に出席したりで、子育てを十分にできたとはとても言えないです。
実父は京都に来てから昭和21(1946)年に京都市中京区で開業しました。その後病気になり、医院を継いでほしいと言われた時私は学生で、長男の兄は大学の理学部に在籍していましたので、かなえることができませでした。実家の医院を継ぐことはできませんでしたが、祖父と父からの「医師」という職業は継ぐことができました。
「美智子先生に診てもらいたい」
今も診療に向き合う日々
私もこの年になって引退を考えます。でも高齢の患者さんから「先生の顔を見たらホッとして元気になる。私たちを残して死なんといて下さいや」と言われるんです。何て言いますか、患者さんに励まされて診療を続けているようなものです。一番高齢の患者さんは105歳です。高齢化社会になり、高齢者の廃用症候群や認知症の問題が多くなり、京都市の地域包括支援センターや介護施設の方たちと連携して、訪問診療、訪問看護、訪問リハビリなどの介護サービスの利用や場合によっては施設入所の手続きをすることが多くなっています。高齢になると誤嚥性肺炎や脳卒中などで亡くなることが多く、患者さんを見守るのも私の務めですね。
開業医は患者さんの日々の暮らしも診る仕事です。病気のこと、身体のことだけでなく、患者さんはご家庭のこと、日常の愚痴など相談事を話されることも多いです。開業医は医学の進歩に遅れることなく勉強を続け、それを日々の診療に生かすことはもちろんのこと、地域に溶け込み患者さんの心の訴えに耳を傾け、日常の生活にも目を向けることも大切と考えています。患者さんが入口から入って来られて診察室に入られるまでの歩き方で「あ、いつもと様子が違うな」と気づくこともあります。ご本人は大丈夫と言っておられても、私から見ればいつもと違うことはすぐに分かります。そんな地域の方たちをずっと診てきました。
「やっぱり美智子先生に診てもらいたい」という患者さんからの言葉を信じて、歩行が困難になった方、認知症になった方の往診や診療を今日も頑張っています。
(文・写真 2024年11月12日 正木医院にて)
正木家と西陣衣笠界隈 町は様変わりしても医師の道は受け継がれる
補録
昭和2年に清が平野神社の東側で正木医院を開業した当時は今のような保険診療はまだない時代で、患者さんからの医療費はお正月とお盆に支払われることが多かった。お金がない方からは米や野菜をいただくこともあった。
戦前、西大路通の西側は田畑が多く「絵描き村」と呼ばれ、堂本印象や菊池契月、山口華楊などの画家が多く住んでいた。戦後になるとこの辺りは急速に開発され、田畑だった景色はすっかり様変わりし人口が増えた。嵐電(京福電気鉄道)は白梅町(現:北野白梅町)までになり、北野天満宮の前まで走っていた市電も昭和36年に廃止された。
昭和53年5月、木造2階建の医院を3階建の鉄筋コンクリートに建て替えた。清は「改築を見届けることができた」ととても喜んだ。
正木医院を継いだのは美智子だったが、清孝が京都第一赤十字病院内科部長を定年退職した後は、二人での診療体制になった。正月の2日は仲の良かった医師仲間を自宅に招いて宴を楽しむのが清孝の毎年の恒例だった。亡くなる年の正月も大好きなステーキを食べて皆を驚かせた。数日後、美智子が1階の診療所で午前の診療を済ませ、清孝が寝ている3階に上がり、清孝の名を呼ぶと、安心したのか静かに息を引き取った。今年で13回忌を迎える。
「仕事に夢中になり、子どもを十分かまってあげられなかった」と謙遜する美智子だが、3人の子は立派に成長し、長男は正木医院を承継、次男は上京区で歯科医院を開業した。歯科訪問診療にも力を入れ、一般の歯科医院での治療が困難な障害者の方の診療を専門とする京都府歯科医師会サービスセンター北部診療所での診療にも携わっている。長女は京都市立病院で総合内科担当部長として診療に励む。それぞれが医療に携わり、地域医療に貢献している姿に「夫はもちろん、祖父や父、義父ともども喜んでくれていると思います」と美智子が母親の顔をのぞかせた。
(敬称略)
信頼するスタッフとともに患者さんを笑顔で迎える美智子医師
まさき・みちこ
昭和6年生まれ
昭和27年 京都府立医科大学入学(第2期生)
昭和31年 京都府立医科大学卒業
昭和40年 医学博士号取得
昭和46年 義父・清の正木医院を承継
スポーツ医の資格を取得し、全国都道府県対抗女子マラソン大会の救護班として救急車に乗り、最後尾で参加して、沿道の人から「救急車も頑張れ!」と応援してもらうこともあった。平成11年9月から令和5年3月まで京都市介護保険認定審査委員を務めた。平成12年にケアマネジャーの資格を取り、介護支援事業所を併設したが、医院の仕事が忙しく間もなくして閉所。以降は医院としての訪問診療や訪問看護を継続している。