鈍考急考 47 原 昌平 (ジャーナリスト) 「強い個人」はどれだけいるか?  PDF

 〈強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない〉
 米国の作家レイモンド・チャンドラーの小説で私立探偵が語るセリフ。昔、映画のCMに使われ、有名になった。
 この言葉がカッコいいのは後半があるからだが、現実の社会ではまず強さを求められる。学校の先生も、弱い子ではダメだ、強くなれと言う。
 社会生活で、苦情の伝達や交渉が必要な場面は多い。
 社会保障、福祉はある程度まで整備され、金銭収入、医療の利用、日常生活をサポートする仕組みは一応ある。
 けれども行政の各種制度は申請主義。申請なしで適用や給付をするのは例外的だ。
 問題は、自分はどうしたいかという意思決定と、そのための権利の主張である。
 民法の世界には、次のような格言がある。
 〈権利の上に眠るものは保護に値せず〉
 金銭の請求などに消滅時効を定めている理由だが、権利があるなら行使するのが当然という考え方は民法全体、いや法体系全般に漂っている。
 君主に従う封建社会から近代国家へ。さらに全員で形づくる民主主義社会では、しっかりした意識を持つ個人の確立が望ましいからだろう。
 日本国憲法12条の前段は、こう強調している。
 〈この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない〉
 統治権力者は人権を軽んじるおそれがあるから、油断せずに闘って守れという趣旨だが、権利主張を自己責任のように読んでしまう人もいる。
 一人ひとりが権利を認識し、権利を主張し、権利を行使する。そういう個人が法体系の暗黙の前提になっている。
 実際には、自分だけで主張できない人が多数存在する。
 知的能力や精神面の障害だけでなく、心理的あるいは身体的に弱っている人もいる。
 置かれている立場や状況、相手との力関係などから、権利主張しにくい人もいる。
 雇用関係、所属組織、家族内の虐待、施設入所・入院、近隣からの見られ方……。
 そもそも法律や制度について、知識の少ない人は多い。
 例えば医師は、社会的地位の面でも知的能力の面でも最強レベルだろうが、法律には疎いことがある。
 医療現場ではどうか。消費者の立場から過剰な要求をする患者がいる一方で、遠慮して言えない患者もまだ多い。
 治療方針の意思決定では、弁護士や大学教授でも、自分だけで十分に決められるか。
 現行の成年後見制度は、判断能力の不十分な人を一人前として扱わない。障害者権利条約の要請もあり、できるだけ代行決定ではなく、本人による意思決定の支援へ変えようという方向になっている。
 よくよく考えると、意思決定の支援、権利行使の支援は、ほとんどすべての人に多少なりとも必要ではなかろうか。
 オレは強いという意識の人もいるけれど、競争社会で勝ち抜くストレスを抑えるための自己防衛かもしれない。
 強い個人という市民社会の前提は、幻想ではないか。
 みんなに強くあることを要求する社会は、優しくない。

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