死んでたまるか 11 3年が経過して 垣田 さち子(西陣)  PDF

高度成長期 我が家にも家電がやって来た

 戦後の過酷な日々を人々は懸命に生きた。終戦から5年で朝鮮戦争が起き、連合軍アメリカ占領下にあった日本は、朝鮮半島に進軍したアメリカ軍支援で経済的に大きな役割を果たし(朝鮮特需)、壊滅的状態だった経済の復興が進んだ。
 少しずつ落ち着きを取り戻しながら、人々は前を向き活気を持って暮らしを再建していった。とはいっても貧しさは歴然で、四条通大丸前で撮影された写真を見ると、私を抱っこした母は、素敵なワンピース姿なのに足もとは下駄である。
 人の集まる所には、傷痍軍人が何人か座り、カンパを求めていた。白い着物で笛や尺八、ハーモニカなどで悲しい曲を演奏するので幼い私は怖かった。
 「児童福祉法(1947年)」「身体障害者福祉法(1949年)」に次いで「生活保護法」が1950年に成立し、福祉三法が戦後早い時期に整ったのは評価できる。それほどこの戦争の後遺症が重かったということだが。法成立の背景を学び精神の発展を期すことが大事だ。
 親しい患者さんに松下電器の販売店の人がおられ、家電の新製品が出るとすぐに我が家に運び込まれた。最初に住んだ家はおくどさんでご飯を炊いていたと思う。銅張りの冷蔵庫があったが、一番上に氷を入れて冷やすものだった。朝早くリヤカーに大きな氷を積んだおじさんがやって来て、家の前でそこの冷蔵庫の大きさに合わせて、のこぎりでシャッシャッときれいに切り分け手鉤で持ち上げ、冷蔵庫に納めてくれる鮮やかな手際の良さに見とれていた。電気冷蔵庫、電気洗濯機、電気掃除機、テレビ、ステレオ等々だんだん家電が増えていった。50年代の朝鮮特需に続く神武景気、岩戸景気、日本の高度経済成長は力強く進み、質素・倹約が「消費美徳」へと変わった。
 父はオートバイで往診していたが、ついに自動車がやって来た。オースチンという外車だ。よく故障する厄介な車だったが父は喜んだ。オートバイが安全な四輪車になり家族はもっとうれしかった。交通事故が徐々に問題になってきた。
 両親の忙しさが増すにつれ、いただき物が増えていった。伏見稲荷の焼き鳥とか、不二家のデコレーションケーキとか、禁止されたつぐみのかすみ網猟など二度とお目にかかれない品物もあった。

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