死んでたまるか 10 3年が経過して 垣田 さち子(西陣) 医療が間近にあった幼少期  PDF

 私が小学校低学年の頃、父が外科の看板を掲げて北区で開業した。ご近所に眼科、産婦人科はあったが、外科の医療機関としては北病院、済生会病院はあったが、気軽に行けたかどうかは分からない。外科の患者さんを主として多くの患者さんが来られた。夜診は6時から8時までのはずが、10時11時まで診療していた。野戦病院みたいだったと思う。やけどやけがが多かった。今だったら労働災害になるであろう症例が多かった。
 ある日、午前の診療が済み、母が外出していた時に急患があった。足の裏に縫い針が刺さり、どんどん身体の中に吸い込まれるようだと言う。父に呼ばれた。急いで取り出す必要があった。切開するので開いた所を持っておけというのだ。鉤持ちである。念入りに手を洗い消毒し、言われるように適度の位置を保って、外科器具をしっかり保持した。初めて見た人の身体の生々しい美しさ。
 不覚にも意識が遠のく感じ。「隣の部屋で休んで来い」と言われて、畳に倒れ込んでしばらく気を失っていた。患者さんは処置を受けて帰られた。
 父も母も出かけることはあまりなく、時間外診療も積極的に受けていた。四六時中人の出入りがあり、電話での多岐にわたる連絡も頻繁だった。
 後になって理解したことだが、レッドパージもあった。電話口でのやり取りも緊迫していた。何人かの先生が追放されたようで、どうやって助けるかと難しい相談だった。京大医学部からも学生が放校になった。この方たちは翌年に再受験して府立医大に入学され、卒業後に医師になられた。何代か前の大阪府保険医協会の理事長の平井正也先生もそのお一人だった。
 敗戦後のアメリカ占領下で世の中がまだまだざわついている時で、医療保険も整っておらず、つけで来られている家も何軒かあった。盆暮れにお支払いに来られるのだが、請求書を届けるのも私の仕事だった。額面は覚えていない。というより、そもそもどういう計算だったのか、分かる訳がない。いろいろな情報がやり取りされていたし、西陣医師会として集まっての相談も多かった。
 忘れられないのは、刑事事件になった騒ぎである。「イスムスですな」「やっぱりイスムスですか」「さすがにそれは、かばえませんな」というような電話のやり取りが数日続いた時、我慢できなくなった私はついに父に尋ねた。「イスムスって何」。答えは「それはな、医学部に行って6年間勉強したら分かる」と。
 この頃、麻薬に関わる問題が社会問題になっていた。戦時中の緩みというより、政府が推奨していた感のある薬物問題が長引いていた。有名な音楽家がヒロポン中毒だということは公然だったし、芸術家とともに医療界も疑われていた。そして、西陣医師会からも逮捕者が出た。

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