美術を鑑賞する時、美術館の建物や周囲の環境も大切な鑑賞の対象となる。美術館は豊かな自然の中にあるのがいい、かつ建物も周りの景色に溶け込んでいるのがいい。コンクリートとアスファルトに囲まれただけの大都会の美術館へは少し行くのがためらわれる。その点、京都の美術館の多くは山紫水明を感じられるところにあるのでいい。美術鑑賞の日、朝、家を出てから乗り物、道のり、周りの風景に至るまですべてはアートになる。
左京区、哲学の道の近く、緑多いところにある泉せん屋おく博はく古こ館かんという小さな美術館は、世界的にもあまり類のない中国古代青銅器の美のためだけに作られた。ひとたび足を踏み入れたなら3000年前の中国へタイムトラベルすることに。売店やカフェなど余分なものは一切なく、そのかわり比叡山から大文字山へと連なる東山が見事な借景として青々しい中庭に取り入れられている。人の少ない平日には京都で最もほっこりできる美術館となる。最寄りのバス停は鹿ケ谷通にある宮ノ前町。帰りのバスを待つ間、目の前は大文字山に連なる東山がさらに間近に、稜線の木々の枝まではっきり見える。ここは京都で最も景色のいいバス停である。
アートな気分に満たされた非日常が終われば翌日からはまた日常。これを繰り返すうち、ある事に気づく。日常と非日常を区別しなくていい、日常を非日常にすればいい。
画家がキャンバスを素材にして絵画という芸術を創造するように、あるいは彫刻家が大理石を素材に芸術を創造するように、日々の出来事を素材に芸術を創造すればいい。そうすれば日常はアートになり非日常になる。芸術にするには日々の出来事に美を追加するのである。美の中身は寛容、愛、情熱、思いやり、強さなどなど、人それぞれ、何でもいい。このようにして美が追加された時、今まで何の変哲もなかった日々の出来事は宝石のきらめきに変わる。同時に陳腐な価値観は終わりを告げる。ここでは成功か失敗かではなく、正しいか正しくないかでもなく、美しいか美しくないかが価値の基準になる。すべての出来事は美しいか美しくないかで判断される。新しい価値観の下では、そこに美があれば、結果のいかんにかかわらず、それは成功であり正しいのである。
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