軍医〈父〉の帰還
父は医大の卒業を一年早めて陸軍軍医〈大尉〉として中国へ従軍した。途中で国の南進作戦がでてトラック諸島に転戦した。といっても戦争とはとてもいえない状況だったそうだ。武器もなければ、まず食べるものがない。ゲリラになってジャングルで生きていたそう。出発時は熊本の隊に配属だった。多くいた隊員もニュージーランドの捕虜収容所に入った時には、たったの5人だけだった。
奇跡の生還を果たした理由を「お父さんが医者やから皆ついてきてくれた」と言っていた。
帰ってきた日、関西本線で伊賀上野に向かっている時、前の座席の女の子連れのお父さんが義兄に似ているが、知らない女の子といるので違うと思ったらしい。義兄は出征を見送って6年の歳月が過ぎ、がっちりした体格の父が30㎏台の激やせ、尖った顔で戻ったので分からなかった。女の子はいない間に生まれた姪だったのだ。同じ駅で降り同じ道を帰り始めて分かり、姪のトーチャンが先に走って知らせたそう。どんなに嬉しかったろう。
帰ってしばらくの間、父には妙な行動が続いた。ドドドドッと転がるように二階から降りてきて、大声で何か叫んだそうだ。ハッと気がついてまた静かに二階の自室に戻ったそう。「『敵が攻めてくるぞ』みたいな事を言うてたんやろな」と叔母は言っていた。
父母は昭和22年に結婚して、23年に私が生まれた。私の出生地は河原町広小路である。住まいは今宮神社の鳥居のあたりの二階を借りて新婚生活が始まった。
父は府立医大に戻った。そして、近江八幡病院の院長として赴任した。
日本は戦争に負け、全面降伏し、アメリカの占領下におかれた。大日本帝国憲法に代わる民主憲法の制定、社会保障の諸制度の制定・実施等目まぐるしく社会変革が進められていた。
医療界はどうなっていたのか。アメリカの占領統治レポート“ビバリッジ報告”には日本の医療保険制度の存在が驚きを持って受け止められていた。日本の医療皆保険制度は戦前につくられたもの。終戦時には資金も枯渇し、携わる職員もいない。実質的には機能しない状態になっていた。しかしハイパーインフレに苦しみながらも、医療需要に応え保険制度を活用する方向を選んだ先輩達に敬意を表する。