死んでたまるか6 3年が経過して 垣田さち子(西陣)  PDF

牛・蚕・鯉も育てる農家の暮らし

 もう一つの故郷は母のお里、兵庫県但馬の農家である。
 小学校中学年になるまで、夏休み、春休みなどまとまった休みには父の里、母の里に預けられた。
 農家の朝は早く、午前4時にはみんな起きてくる。春日八郎、三橋美智也などの流行歌が茶の間のラジオから大音量で響いていた。当時この家には、祖父母と叔父、叔母の7人家族が暮らしていた。祖父と叔父たちが順番に食事をする部屋にやってきて、大きな水屋から箱膳を取り出しそれぞれ朝食をとった。ここには二つ口のオクドさんがあり、大鍋、釜がかけられご飯やお味噌汁が煮えていた。人間用と並行して牛の飼料が炊かれ、香ばしい匂いが家中に満ちていた。この部屋は半分土間になっていて中庭に続き、その次は牛の部屋だった。大きな目をした真っ黒な牛がいた。トイレ、お風呂にいく度におでこをなでてやった。おとなしい牛で、よく散歩に連れ出したがゆったりと川まで歩き、広い河原で水を飲んだり草を食べたり、お決まりのコースをこなし、来た道を帰った。私の手に合う子どもの牛だったのだろう。神戸牛、松阪牛になるのだと聞いたが、但馬牛は今やブランドらしい。
 2階の1室は、お蚕さんの部屋だった。数台の棚にびっしりと蚕がいて、終日ショリショリと桑の葉を食べていた。祖母と大きなかごを背負いちょっと遠い桑畑まで葉を摘みに行った。よく食べるのでうれしいのだが、忙しい。蚕の成長は早い。繭になったら次のステージに送るようだ。
 ブリキの缶に入った乾燥さなぎが縁側にあり、私の担当で池の鯉にエサをあげるのだ。多くの家で前庭が池になっていて、食用の鯉が飼われていた。田舎から叔父が訪ねてきた時に、濡れた新聞紙に包まれ風呂敷包みで4時間半の道中をやってきたのにたらいに水をはって放したら、悠々と泳いだので驚いた。もちろん最後はご馳走になったのだが。
 この町も周辺の町と合併し、今や養父市となり兵庫県一人口の少ない市だ。70年前の農家のあり方として典型的な姿だったと思うが、どう変化したのだろうか。長兄は国鉄職員となり農家を継ぎ、あとの3人は郵便局長の養子、警察官などになり独立した。その叔父たちも亡くなり、次の代とも疎遠になってしまった。21世紀は飢餓の世紀になると警鐘を鳴らす人もいる。日本にとって農業は大事だ。その時代は農家がたくさんいたが、2000年代に入り5%を下回っている状況である。日本の農業の展望はどうなっていくのだろうか。

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