鈍考急考 34 原 昌平 (ジャーナリスト) 認識のギャップ、問題の混同  PDF

 患者・家族を含め、一般の人々が抱いている医療行為のイメージと、実際の医療には、大きなギャップがある。
 終末期医療と聞いて、一般の人々の多くが思い浮かべるのは「スパゲティー症候群」。たくさんのチューブと機器をつなぎ、1日でも長く生命を保とうとするのが病院側の姿勢という見方である。
 現実はどうか。複数の病院の倫理委員会をはじめ、筆者の見聞きする範囲では、2000年代後半から医療現場の状況はずいぶん変わった。
 高齢者で回復を期待できない場合、病院の多くは医療行為を早めにやめたがる。ひらたく言うと、さっさと死なせるほうがよいという方向に傾いている。悪意ではなく、そのほうが倫理的だと考えるスタッフが増えた。
 治療の不開始・中止を容認する各種学会の指針に加え、2007年に厚労省が終末期医療に関連する指針を示した影響も大きいのだろう。
 医療側は、勝手に方針を決められないから、今後どうしたいかを尋ねる。患者・家族の側は、病院は濃厚な医療をしたがるものだという想定に立って、こう言う。
 「延命治療は一切要りません」「わかりました」
 その程度で、ACP(アドバンス・ケア・プランニング)が一丁上がりとされたりしていないか。
 具体的な医療行為のイメージにもギャップがある。
 口から食べられないときの栄養補給ルートは主に4種類。一般の人が肯定しやすいのは点滴、次に鼻腔栄養で、胃ろうには拒否感が強い。
 実際には末梢静脈への点滴は痛みを伴い、身体拘束されることも多い。鼻腔チューブは不快感が強く、自分で外さないようミトンをはめられたりする。中心静脈栄養は感染リスクが高い。胃ろうは造設手術に若干のリスクはあるものの、苦痛はほぼない。
 人工呼吸器はどうか。気管切開の有無にもよるが、呼吸苦が和らぐとしても、使わないほうが本当によいのか。
 医療手段が必要な病状になることのつらさと、医療手段自体に伴う苦痛が、混同されがちではなかろうか。
 医療スタッフの側にも混同は生じる。DNAR(心肺蘇生不要)の記載がカルテにあると、生存中の治療にも消極的になる医師。患者本人の苦痛の有無ではなく、見るにしのびないという自分の気持ちが先に立つ看護師。
 回復の可能性があるのに積極治療を控えていないか。今では過剰な医療より、早すぎるあきらめが心配だ。
 双方ともはっきり意識していない知識・考え方のギャップは、難しい課題である。
 認識のズレがよくあることを患者・家族に伝え、理解の内容を確かめないといけない。医療側に起きやすい混同も、スタッフの共通認識にしておく必要がある。
 厚労省の指針は2018年に「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」に改訂された。おおむね妥当な内容だと考えるが、大事なのは意思決定の前提。きちんと取り組むのは簡単ではない。
 という認識は、どれだけ共有されているだろうか。

ページの先頭へ